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長谷川愛・江永泉・青山新 座談会「未来の友達」

「わたしはイルカを産みたい(I WANNA DELIVER A DOLPHIN…)」などで人類と人類以外の生物種、生態系との関係について問いを投げかけているスペキュラティヴデザイナー・長谷川愛と、各媒体でクィアスタディーズを始めとする様々な理論やカルチャーについて論じつつ、「闇の自己啓発会」発起人として読書と雑談の新たな様相を提示し続ける江永泉。SF作家・青山新の司会のもと、「未来の友達」を巡る二人の対談を中心とした座談会をお送りする。本座談会は2022年6月3日、anon運営のDiscordサーバー「anon future communities」のボイスチャット上で実施・収録された。オルタナティヴでスペキュラティヴな活動を展開する二人(を中心とするn人)の対話がどこへ向かうのか、ぜひとも見届けていただきたい。(編・樋口恭介)

クィアスタディーズとスペキュラティヴデザイン、オルタナティヴのための理論と実践

青山:今日は「未来の友達」をテーマに、スピーカーの長谷川愛さんと江永泉さんと話しつつ考えを深めていきたいと思います。

 昨今、テクノロジーや社会通念の変化によって「自己」や「家族」といった概念が拡張されつつあります。例えば、性自認の問題は自己をいかに定義するかの問い直しであると同時に、同性婚の法制化を巡る議論に代表されるような、家族のかたちの問い直しでもあります。他にも、微生物を含む「超個体」として人間を捉え直す機運は高まりつつありますし、あるいはヒトゲノムの多くがウイルス由来のものである可能性などを指摘することもできるでしょう。ではひるがえって「友達」についてはどうでしょうか? 個体や血縁といった考え方をベースに発達してきた「自己」や「家族」の輪郭が揺らぎつつある今、「友達」というあやふやな概念について考えてみることで見えてくるものがあるかもしれません。ここにはさらに、テクノロジーによって友達のつくりかたはどう変わるのか? チューリングテストをパスするようなAIと生身の人間、どちらをわたしたちは友達に選ぶのか? 各種の動植物や無生物とのコミュニケーションが可能になった時、わたしたちはそれを友達と呼べるのか? といったさまざまな論点が加えられるかと思います。

 こうした「未来の友達」あるいは「友達の未来」について考えるにあたって今回は、スペキュラティヴデザイナーとして出産や家族に対する問題提起を含む作品を多く手がけられてきた長谷川さんと、「闇の自己啓発会」の発起人として知られ、クィアスタディーズをはじめとした思想・理論に明るい江永さんをお招きしてお話を伺っていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

江永:江永泉です。『闇の自己啓発』という本でクィア理論を取り上げていたので今日はお呼びいただいたのかなと思っています。よろしくお願いします。

「未来の友達」というテーマを聞いたとき、まず思ったのはイマジナリーフレンドのことでした。全く知らない人向けに言えば、語弊はありますが脳内友達です。子供の頃、自分に話しかけてくれる友達のぬいぐるみとかがいた人は、そこからぬいぐるみというブツを引き算して考えてみてください。そういう空想の友達です。フィクションだと遊戯王の「もうひとりのボク」とか、最近のボカロ曲なら、いよわ『パジャミィ』のMVなどが、そのわかりやすいイメージを提供していると思います。イマジナリーな友達を考えることは、個々の脳内の友達イメージを考えることにもつながります。

 これから人間以外が友達になりうるとしたら、もちろん、もうすでに友達になっている人も少なからずいると思いますが、それがもっと一般化していったとき、人々の脳内Xに何が代入可能になっていくのか(「脳内X」「代入可能」は文字起こしをしてくださった樋口さんの言葉。うまい表現を感謝です)。そこで何を参照してイマジナリーフレンドをつくっていくのか。そもそも"出会った"相手であり"つくった"キャラクターではないという人もいると思いますが。ともあれ、これは、友達像の最大公約数的なイメージが将来どうなっていくのかという話にも結びつくでしょう。

 別の脳内人間の例ですが、よく意思決定のたとえで、脳内で複数の人物が会議しているとか、天使と悪魔に囁きかけられるとかの図像があると思います。こういう、選択に悩む様子を示すイメージにもファッションや社会問題のように流行り廃りがあるわけですね。あるいは、人体に起きている事態は概ね同様のはずでも、物語の水準では狐憑きとかサトリから毒電波とか思考盗聴へとかの変遷があった、みたいな話。これも流行り廃りの例です。奇矯に映る例が多くなったかもしれませんが、こういう、ふだんづかいのイメージの分析をしていくのは有意義なことだと思います。カジュアルであれフィクションとともにヒトは生きてきたのだし、これからもそう生きていくでしょうから。

 また、もう一つの方向性として、友達という関係性はこれからどう機能するのか。これを検討するアプローチもあると思っています。友達という枠の中に、現在の友達とは違うもの、違うタイプの人どころか人でないタイプのものまで、いわば二重の意味でヒトデナシをも含めていくと、主体のあり方が変質し、関係性も変質するはずです。友達関係と呼ばれるものが、今後も同じ友達関係と呼ばれつつも、実態としてどう変わっていくのか、そんな友達たちとのコミュニケーションの中でわたしたち、すなわち、わたしにとってはわたしで、あなたにとってはあなたであるような、これの読者、強く言えばこの世界というゲームのただひとりのプレイヤー。それが、どう変わっていくのか。そういう未来を考える方向性です。

 どちらかといえば言語、物語とか理論に寄りがちの自分には現在、この二つの論点がありますが、実際にものをつくってきた長谷川さんは、異なる意見やスタンスをお持ちだと思います。長谷川さんとは今日初めてお話しするので楽しみです。

長谷川:長谷川愛です。よろしくお願いします。日本では現代美術家と名乗ることが多いのですが、もともとはイギリスで、スペキュラティヴデザインという問題提起を行うデザインのアプローチについて学んでいました。冒頭で青山さんにご紹介いただいたとおり、サメを産んだりイルカを産んだりする作品や、同性間で子供を産む技術ができたときに、いかに育て、そのときどのような問題が立ち上がってくるのか、といった作品をつくっています。

 先ほど江永さんがおっしゃったイマジナリーフレンドに関連して言うと、「(IM)POSSIBLE BABY (不)可能な子供:朝子とモリガの場合」という作品を作ったりしていました。これは、同性カップルの遺伝情報を分析し、それらの遺伝情報から、生まれることのなかった/生まれうる仮想の子どものイメージを生成し、仮想の子どもとの家族写真を制作するというものです。今後、これまでイマジナリーフレンドと呼ばれてきた存在は、テクノロジーによってイマジナリーなものではなくなっていくと思います。そうなってくるとイマジナリーフレンドはどう変わるのか、ということを考えることには興味がありますね。実在性を伴ってもイマジナリーフレンドへの執着は残るのか、あるいは、アバターとして実在するようになったイマジナリーフレンドをデータの箱庭の中で愛でる人間の姿を想像する、というのも、おもしろいなと思います。

 わたしは友達というのは、家族や恋人とは違う距離があると思っています。互いに期待をかけない関係、情はあっても踏み込みすぎない関係があると思います。いまはそういう風に、「こんなことしたら嫌われるだろうな」とか「キモいやつと思われたくない」といった心理的なストッパーが働いているのが普通の友達関係だと思いますが、そういうストッパーを解除してもいい世界を想像するのもおもしろいです。キモいことしてキモがられてもいい、みたいな。

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