腐った人間と愛〜「花腐し」感想〜

綾野剛さん、柄本佑さん、さとうほなみさん出演の映画「花腐し」を観た。

「女性が死ぬ」ことがもたらす文学的美しさは原作を踏襲しており、さらにそこにジェンダーレス、アダルトビデオ、女優という脚色が足されていて、形容できないほど素晴らしい作品だった。

以下に述べる感想は、原作に関することも述べられているが(というか、原作を踏まえた映画であるため当たり前だが)、あくまで映画を観てのものである。

作品を観て感じたことは、栩谷の一言の重さである。主演の綾野剛さんもあるインタビューで仰っていたが、栩谷は考えていることをそのまま表現できる人ではない、栩谷だけではなく同じような人はたくさんいる。だからこそ、栩谷が発する言葉には不思議な重みがあり、物語を動かしている力があるように感じたのだろう。

なんとなく印象に残った栩谷の言葉を紹介する。

「芝居上手いじゃないか」

祥子の顔が悦びにあふれるシーンに、「あぁ、この女はもう栩谷のものなのだ」と思った。この時の祥子は、女優として生きたいと思っていた。彼に認めてもらえるなら…
女として、俳優として、どちらの人生も生きたかったが、結局どちらも生きられなかった。

「そうか」

ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」のワンシーンを彷彿とさせるような、冷ややかな一言。栩谷は、このタイミングくらいは熱くならなければならなかった!!!

打ちなおされたAV脚本「花腐し」


 セリフ量が元々少ない本作だが、なかでも文字で心を表すこのシーンは栩谷の迷い、後悔、愛情が伝わってくる。思考は目には見えない、だけど文字にすると少しはわかるものがある。伝わるものがある。伊関も言っていたが、本棚を見るのは頭の中を覗けるから。どんな本を読んでいるか、どんな文字を読んでいるか、それは本人の頭の中を表している。
このシーンは、打ち込まれる内容もそうだが、打ち込んでいる様子に思考の流れが表れており、痛くなるほど後悔や悲しみ、愛が伝わってくる。あぁ、栩谷も人間なのだ。女が好きなのだ。祥子が好きなのだ。

 あとは、この脚本を書いたのは誰なのだろうか?二人の男のどちらかなのか?死んだ祥子か?最後に祥子で映画を撮りたかった桑山か?
私はおそらく栩谷だと予想するが、死者と同じ第三者視点から見ている観客は、栩谷と伊関が知っている情報をすべて知っている。みんな同じ情報を共有しているから、誰が書いてもおかしくない。最後に祥子主演でとるはずだった脚本は「花腐し」だったのだろうか。

 それとも、女の嫌な所は撮ることができていた栩谷だが、祥子を愛したことで、愛する人をピンク映画に出すことに嫌悪感を抱いたのだろうか。

劇中歌の「さよならの向う側」

無いはずの記憶がよみがえる。祥子と栩谷は、心の奥底で本当に愛し合っていた。
歌詞にある「季節ごとに咲く 一輪の花に 無限の命 知らせてくれたのも あなたでした」、一輪の花に祥子を重ねてしまうのは視聴者のエゴだろうか。
祥子には無限の命があってほしかった。祥子の命は無限であってほしかった。栩谷もそう思っていたのではなかろうか。

最後の展開は、今まで栩谷にそんな素振りがなかっただけあって、感動した。私は、感動を安心に求めていて、安心を人同士の寄り添いに求めているのだと思った。自分の感情を行動に出すまでに時間がかかる栩谷が、自分から祥子に寄り添った瞬間である。


「さよならのかわりに」二人は何を残したのだろうか。二人は何を誓い合ったのだろうか。


原作を読んでから映画を観たが、今は映画の印象が強すぎて、小説の内容が一切思い出せない。
これは、小説を読み終えた時点で所感を残さなかった自分の責任である。
間違いなくどちらも官能的で、人の本質を映し出しており、人間的な作品であったことは間違いない。

映像が持つ力の強さを感じた。

ピンク映画の監督
山口百恵
女嫌いのクタニ
心中
AV監督志望のリンリン

様々な脚色の中でも、上の5つは痛烈な印象を残した。すべての歯車がかみ合って、映画を構成していた。リンリンが女も男も性的対象であるというのも、性がもつ尊さ、身体的恋愛を現わしていると思った。

栩谷はどう生きていくのか、伊関はどこへ行ったのか、人間ってなんなのか、愛とは、動物とは、お化けとは?

祥子が死んだ理由が分からない栩谷、わかっている栩谷。わかることから逃げている栩谷。

栩谷も伊関も逃げているのだ。弱い男だ。弱い男が、強く気高い女を殺したのだ。

「クタ二」という名前が持つ悲劇性は、「花腐し(くたし)」というタイトルと酷似していることからわかる。クタニは結局女に腐り、映画に腐り、同僚に腐り、才能に腐ったのだ。

断片的な感想がとりとめもなくあふれてくる。そんな素敵な作品だ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?