父のすき焼き
家に帰ると、勢いよくザクザクと野菜を切る音が聞こえた。
帰り道に買った冷凍うどんを片手に音のする方へ向かうと、普段はキッチンに立たない父が、大事な儀式でも行うみたいに真剣な顔で白菜を切っている。
「すき焼きを食べよう」と急に言い出したのは昨日の昼頃だった。
母が遠方に住む祖母の介護でしばらく不在にしていたので、「自分がなにかしなければ」と気を遣ったのかもしれない。
間の悪いことに、すでにカレーを仕込み終わってしまったことを告げると「じゃあ、明日にする。」といってリビングへと引っ込んでいく。
父から何かをしようと言い出すことは珍しい。
本当は終日デートの予定だった恋人に、明日は早めに切り上げていいかと尋ねると「すき焼きいいねぇ。おいしそう。」といってこころよく承諾してくれた。
約束通り、早めにデートを終えて家に帰ると、すき焼きの準備が着々と進んでいた。
「野菜、残り切ろうか?」と声をかけるが、
「いや、いい。」と短く断られる。
おぼつかない手つきで、つい口が出そうになるがグッとこらえる。
どうやら今はキッチンに入らないほうがよさそうだ。
まだ散らかったままの食卓を片付けに向かう。
野菜を切り、白滝の下茹でをして、お肉を冷蔵庫から取り出す。
お皿とお箸とコップをならべる。
あとは鍋に具材を放り込むだけだ。
鍋の中で、野菜が焼ける音だけが聞こえる。
もともと、私と父の間に会話はほとんどない。
非常に厳格な父と、あらゆることにテキトーで雑な私は、昔からびっくりするほど反りが合わないのだ。口を開けばケンカになるので、まずいことを言わないようにしないと、途端に夕食がお通夜みたいになることはわかっていた。
遅れて食卓にやってきた弟がぽつらぽつらと父と話している。
私は、すき焼きの肉の具合を真剣に確かめるふりをして、じっと黙っている。
鍋からおいしそうなにおいがする。
「もういいんじゃないか。」
と父がいい、弟が好物の白滝に手を伸ばす。
箸で持ち上げた白滝はどこまでもつながっている。
一瞬の間が開いた後、思わず声を出して笑ってしまう。
「白滝、切らなかったんだね。」
多分、父はいつも母が食べやすい長さに白滝を切っていたことを知らなかったのだ。
「しまったな…」
と気まずそうに笑った父を見て、なんだか急に二人の間に挟まっていた透明な板が、一枚だけなくなったような気がした。
その後、いつも以上に会話が弾んだ。
…なんてことはなかったけど、気は幾分か楽だった。
私にきちんとすることを求める父と、それにしぶしぶ従う私と。
私たちの間には明らかなパワーバランスがあり、ずっと対等ではなかった。
それが完全に取り払われるためには、まだいくつもの透明な壁があって、すぐに近づくのは難しい。
でもきっと、今だからこそとれる距離があって、二人ともちょっと気まずい思いをしながらそれを模索していくことを、今日選んだのかもしれないな、と思った。
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