キャンセル・カルチャーという啓蒙の頽落

年末にかけて怒涛のキャンセルカルチャーの波が日本を飲み込んだ。星野源の「地獄でなぜ悪い」のキャンセルと、中居正広の性加害疑惑に端する出演番組の差し替えだ。

どちらも対戦型SNSことXを主戦場に、賛成派と反対派が合戦を繰り広げたようだ。飽きもせず。

さて、今回の戦いに使われた装備はイデオロギーによるものだ。偶然にも両者共に「性加害」を攻撃的キャンセルの後ろ盾にした。それは、それを根拠にすればどんなに当事者に罵声を浴びせても許される、近年世界中で最も使い古されているフェミニズムの印がついた呪文だ。

この呪文は「啓蒙の弁証法」が問題にしたところの、真に人間的な啓蒙が頽落したところで発露する魔術の類に他ならない。もともと「啓蒙の弁証法」の著者たちは、ナチズムの台頭つまり反ユダヤ主義に傾倒していく右派ポピュリズムのなかに近代自由民主主義の野蛮化を見た。しかし、近年の攻撃的でカルト的な左派キャンセルカルチャーには同じ恐ろしさを予感せざるを得ない。

つまり、元々女性の権利を保護するところに始まったフェミニズムが、女性たちの手を離れて暴走化し、鬱憤晴らしのための道具的理性に成り下がったのだ。フェミニズムは、「ある著名人、作品、表現が嫌い」という感想を理性に擬態するための良い材料にされる。個人の鬱憤ばらしと勧善懲悪の興奮が炎上という形で現象するのだ。

皮肉にも、フェミニズムはその理念ではなく、「それを唱えれば個人や表現を殺しても良い」という、手段の側面で大衆に浸透してしまった。そして、これはフェミニズムだけに留まらない。反人種差別主義や性の多様性、環境保護といった理性に始まった運動なら例外なく火属性の呪文になった。活動家や正義マンは今日も可燃性の高い草木を、とっくに焼畑になったXのタイムラインから探し出すのに躍起になっている。

第二次大戦後、暴走した反ユダヤ主義の反省でユダヤ保護主義を育んできた欧米は、昨年から続くイスラエル軍によるガザ地区への非人道的な爆撃という暴力を前に麻痺している。イデオロギーは真の正義の重荷にもなれば、不正義の口実にもなる。

Xは、イデオロギーを巧みに使い、他人に攻撃を与えられるという意味で、理性を手軽に道具化できる場とも言える。XをはじめとするSNSは、万人に開かれた議論によって社会を進歩させる期待を初期の頃は背負っていた。まさに、ハーバーマスのコミュニケーション的理性が働く場をテクノロジーによって実現するかに思われた。しかし、テキストベースのコミュニケーションは、対話的なコミュニケーションにならず、その短い文章が永続化された碑文となり、群衆を方向づけてカルト化を引き起こす神の御言葉になった。

キャンセルカルチャーを問題にするとき、キャンセルに抵抗する側もイデオロギーを拠り所にすることがある。例えば、松本人志の性加害疑惑のときには、「刑事告訴せず、週刊誌へ垂れ込まれただけの疑惑で干すのはおかしい」といった批判があった。しかし、そこにも刑事告訴を可能たらしめた法律つまりイデオロギーの一つの形態への信頼がある。

法律で全てを語ることにも息苦しさはある。法律は完璧ではない故、現行の法律に乗っ取って攻撃的になるのも野暮だ。また、昨今はキャンセルカルチャーに何でも反対する反キャンセルカルチャーが思想化している。両陣営がイデオロギーに由来する衒学的な用語を振りかざし、文字による舌戦が日々繰り広げられるSNSのタイムラインには、近寄り難い暴力性を認めざるを得ない。

今日、ネットに刻んだ言葉は、自分の知らない遠い場所で、自分の知らないイデオロギーの名の下に火炙りの刑を言い渡されかねない。今日は無事にやり過ごせても、いつか将来現れる「新しい考え方」によって断罪されるかもしれない。言葉も老いる。Xを眺めていて感じる不安の原因は、空間と時間を越えた敵意に対する想像力を磨き過ぎてしまったからだ。度重なる炎上を見てきたユーザーはかつてないほど神経質になった。世界が危険に満ちたものと錯覚した人間たちは過度に政治化し、いまや左からも右からも過激な言説が飛び交うのが常態となった。

文字の発明は人類史上、最も原始的な啓蒙である。それは人類の自己保存のために、自然の猛威を潜り抜ける知恵を物質化し、知識の忘却と消失に抗う術であったし、人間を人間たらしめる特徴でもあった。その文字が本領を発揮する舞台であったはずのSNSで、「文字が人間性を殺す」という危機が起こっている。文字列がイデオロギーという無形の概念を帯びて、人間自身を脅かす新たな自然の猛威に姿を変えたのだ。

なぜ人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか

啓蒙の弁証法

この問いは今日も生きている。


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