「と」の経験 トトロとひばり

 「経験」としてしか名指せない出来事がある。たぶん同世代の肌感覚とも少し違う、わたしに固有の出来事。手ざわり、におい、音の響き、それらがいずれも分かち難く結びつき、一体となって沈澱しているもの。それはいわゆる郷愁に近いものかもしれない。でもそこには、なにかに還元することが難しいからこそ「経験」と呼びたくなる領域がある。世間的にはあまり馴染みのないもの同士が固有の仕方で「結びつき」、この「結びつき」にこそ結びつけられているわたしの「経験」について、ここでは少し書いてみたい。

 1990年代前半、とある地方に生まれ、平凡な核家族世帯で育ったわたしは、5歳上の兄が好んでいたある映画を録画したVHSテープを、何度となく共に見ていた。それは『となりのトトロ』である。ここまで書くと、なんの変哲もない日常の風景だろうし、同じようなことをやっていた家庭なんていくらでもあったに違いない。だけども、そこで妙に質感をそなえた「経験」としてこの記憶が思い出されるのは、VHSや録画といったメディアと物体とのあいだに固有の「結びつき」があったからだ。

 ビデオデッキにテープを入れる。きちんと巻き戻されているかチェックし、再生ボタンを押す。しかし、ここからが違う。我が家のトトロには、この儀式のあとに必ず流れる映像があった。一度聞いただけでその人だと分かる個性を携えた歌声。トトロと同じかそれ以上に現実離れした豪奢な衣装。その存在感を幼児時分のわたしにも遺憾無く見せつけた彼女とは、美空ひばりである。おそらく直前に歌番組がやっていたのだろう。わたしと兄が何度となく見て、そして聞いていたのは、彼女の代表曲である「川の流れのように」だったのだ。だからというべきか、ひばりに始まるトトロの物語を、文字通りテープが擦り切れるほど見たわたしと兄にとって、いつしか「となりのトトロ」「さんぽ」といった挿入歌以上に、「川の流れのように」の方がトトロとともにあった曲に感じられるようになっていた。

 CMを挟みつつようやく本編が始まるまで、おそらく5分にも満たないわずかな時間ではあったが、美空ひばりの声と顔は、いまやわたしがどんな媒体でトトロを見ようとも必ず脳内再生されてしまう。さながらサブリミナル効果。逆に「川の流れのように」を聞くと、「いよいよトトロが始まるぞ」という高揚感が、全く抗うことのできないほどに心身を震わせるのだ。小難しく言うなら、わたしにとって「川の流れのように」はトトロへの待機を要請する超自我的な呼びかけであり、トトロはその「川」から贈られるひとつの快楽のようなものだったのだ。既に20年以上経っているはずなのに、このトトロとひばりの「結びつき」は、わたしのなかで全く力を失うことなく持続している。そして「やはり」と言うべきか、念のため兄にも確認してみたところ、全く同じ「経験」を持っているらしい。ただし弟は覚えていないとのことで、ここにはVHSからDVDへといった家庭内の世代差があるのかもしれない。我が家は父親の趣味で割と多くのアメコミや007シリーズのDVDがあったが、トトロがそのラインナップに加わることはなかった。だからわたしにとってトトロは、チャプターもない、ひとかたまりの物語のままあり続けた。

 先ほど少しふれたCMも、やはりどこか時代を感じさせるもので、職場でOL(死語だろう)が顔にキュウリかレモンの輪切りを乗せてパックをしているものだったり、葛根湯かヒスタミン系の花粉症の薬のものなどがあったと記憶している(これらのCMは、もしかしたらポケモンのルギア爆誕か平成ライダーの第一話を録画したVHSだったかもしれない)。それでもよく覚えている方だとは思うが、しかし不思議なことに、これらのCMには別にトトロとひばりのような、互いを呼び合う喚起力はない。どこまでもトトロとひばりなのであって、この偶発的な「結びつき」こそがわたしと兄のうちにある「経験」なのだ。

 トトロとひばりは、時にそのどちらもが単体で戦後日本の集合的記憶を構成しうるような強度を持つ存在だろう。ただし、わたしの「と」をめぐる原体験は、この大きな物語を補強するようでいて、そこから少し外れたところにあるものかもしれない。「サイモンとガーファンクル」(今だと&か)でも「修二と彰」でもなく、黒田喜夫『詩と反詩』でも安宇植『天皇と朝鮮人』でもなく、トトロとひばり。わたしにとっての接続詞「と」とは、なによりもまずトトロと美空ひばりとが互いに互いを賦活するようにして存在する力能として感受されるものだったのである。

 しかしまことに恥ずかしい限りだが、トトロの内容もほとんど覚えていないし、「川の流れのように」にいたっては一曲丸々歌えるわけでもない。はじめに書いた通り、「と」という「結びつき」にこそ結びつけられる「経験」が、ただ心に棲みついている。
 ちなみに、わたしが一番好きなのは『魔女の宅急便』だ。正直に言うと、トトロもひばりも、ちょっと怖い。そうすると次は「も」が問題になりそうである。

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