愛は永遠じゃない
でも、恐れずに愛そうとおもった。
大人になると、何かをずっと好きでいることの難しさを知る。生まれてからずっと一番好きなものが変わらない人なんていないことも、今好きなものが来年どうなっているかわからないことも、なんとなく人生の経験のなかで私たちは知っていて、それは、自分の心境の変化であることもあるし、環境やタイミングによって好きを続けられないときもある。好きが日常に溶けていって、かたちとして取り出したり眺めたりできなくなるような変化をすることだってある。それらは決して悪いことではないし、好きなものが変わっていくことを必要以上に嘆いたり悲しんだりする必要もないのだけれど、それでもまあ、私自身、生まれてから一度も”いちばん好き”が変わらない人生でなかったことだけは確かだ。
絶対に切り離すことができないから書くけれど、私はもともと中島健人くんのオタクで、SixTONESのアカウントとは別のアカウントで毎日「健人……おはよう…kiss」とポストするような生活をしていて(うそ、日夜140字いっぱいまで中島健人の解釈をする生活をしていた)そういう生活が好きだったし、そういう生活をしている自分も、何より、日々そうさせるような抗うことのできない魅力を持つ健人くんのことが大好きだった(文章の流れ的に過去形で書くが、健人くんのことは今も超大好きだよ)そして健人くんのいるSexyZoneが好きで、私はこれまであまたのアイドルを好きになってきたけれど、SexyZoneを好きになって初めて「グループという概念」を愛した。グループを好きって、こういうことなんだ、と思うようなことが毎日あって、そこには良いことも悪いことも、嬉しいこともしんどいこともあって、私の生活にはこの数年、そういう日々が当たり前に寄り添っていた。
でも、1/8に私の世界は激変してしまった。予想もしていなかった天変地異が起こり、大地は割れ、空には雷が鳴り、太陽と月が一緒にのぼって沈んでいくような、そんな衝撃の発表で(1/8に健人くんがSexyZoneを脱退するという発表があった)、私の世界は1/8以前と以後でまったく違うものになってしまった。健人くんの脱退の発表を知ったとき、文脈ではなく直感として「不可逆だ」と思ったことを今でも思い出すことができる。アイドルって人生だし、人生って不可逆だ。
そこから健人くんやSexyZoneに対して抱いた感情の話はまた別のはなしなので割愛するけれど、大好きだったものがまったく私の予想しえないかたちになってしまったことや、その渦中で抱いたあらゆる感情とその揺らぎに、私はなんだか怖くなってしまった。誰かを好きになるということが。中島健人を好きにならなきゃよかったとは今までもこれからも一度も思わないけれど、でも、正直、もう、アイドルを好きになるのは怖いなっておもった。私にとって好きになるということと解釈するということや言葉にするということはどうしたって切り離せない行為だから、社会への、人間への祈りみたいなものだから、それをやめることはきっとできない。でも、そうやって降り積もった自分自身のこれまでの言葉にひどく裏切られたような、傷ついたような気持ちになって、そんなふうに思うことが理論的に正しくないことは理解してるのに、それでもこの数か月はこれまで紡いだ言葉の数だけどうしようもなくつらかった。こんなにつらい思いをするくらいなら、最初からもう何もほしくない。そう思うくらいに大きな痛みだった。
まったく話がかわるけれど、私が北斗くんと出逢ったタイミングは明確に2回ある。一度目は俳優の松村北斗に、二度目はアイドルの松村北斗に。
いちばん最初に北斗くんを初めて強烈に意識したのは『キリエのうた』だった。それ以前からもちろん顔と名前は存じていて、何ならB.I.Shadowの絡みもあったし、なぜかFeel da CITYの円盤も衝動買いして持っているので全然出会ってはいたのだけど、本当の意味で「出逢った」のはキリエのうたの潮見夏彦だった。数年ぶりの岩井俊二監督作品の新作が楽しみで楽しみで仕方なかった私は公式も何もかもをミュートしていたので(絶対にネタバレを喰らいたくなかったし、余計な情報なしで映画を観たかったので)おぼろげに北斗くんが出演することは知ってる…くらいの状態で映画を観たんだけれども、観終わった瞬間の、ワーーーーーーーーー!!!!!!!!って走り出したいくらいの衝撃がからだのなかをぐるぐると駆け巡り全身の血液がどくどくいってるあの感覚を今でもわりとはっきりと思い出すことができる。ワーーーーとは実際には言わなかったけど、オタクなので映画終わった瞬間に一緒に観てた友達に「待って!!!!!!!!!!!!!!!!良すぎる!!!!!!!!!!!!」って言った。映画自体も好きだったし、岩井俊二作品への愛情もあったと思うけど、それを差し引いても一瞬で心の全部を奪われるような芝居をみせられて、どうしようもなくなっちゃった。北斗くんの、決して完全な善人でもなければ悪人でもない、すこし特別で、でも普通の、ありふれた、唯一無二の夏彦。結局公開中に5回くらい観に行った気がする。2023年、最も映画館で観た映画はキリエのうただったし、その理由のうちのひとつに明確に夏彦の存在があった。これが多分、本当の意味での一番最初の松村北斗との出逢いだった。
キリエのうたを観たあとに書いたnoteを読み返したら、まだアトリエの前にを知らない私が「北斗くんの文章読みたい~」と言っていて、自分のなかの北斗くんへの感度が高くて笑っちゃった。あなたのその直感は正しく、彼はエッセイの連載を持っていて、その文章を読んで膝から崩れ落ちる日がすぐにきますよ、と教えてあげたい。
次に北斗くんに出逢ったのは、慣声の法則のDVD(実際観ているのはBlue-rayなんだけど、概念としてDVDと表記する)だった。多分3ヶ月…くらい?空いてるのかな。
映画で北斗くんに出会ったあと、なんだか割と長い時間、アイドルの松村北斗を知ることへの躊躇いがあった。あまりにも俳優として出会った松村北斗が良すぎて、彼のクリエイティビティを純度100で楽しみたいからこそ、アイドルの北斗くんを知ることに足が竦んだし、今も実はほんのすこしそういう気持ちがある。私は好きになったアイドルに対して「好きだな~」では終われないタイプの自覚があって、例えば映画出演ひとつとっても、アイドルのファンである自分はできるだけすべての情報をキャッチアップして撮影現場の裏側にいる彼をみたい、どんな環境で、何をおもい、どういうコミュニケーションを経て作品へ臨んでいるのか全部知りたいし、知って解釈したいと思っているけれど、それって映画を物語として楽しむには時にノイズになってしまうこともあるじゃないですか。単純化して例えると、映画を観てるときに「ああ、このシーンがインタビューで苦戦したと言っていた泣きのシーンかあ」とか、そういうことが頭をよぎるのもいやだし、松村北斗という俳優の芝居を「アイドルの成長の測定器」にしてしまいそうな自分を想像してしまって(念のために付記するけど、これはアイドルのほうが職業として価値が低いとか、アイドルファンはすべからくそういう楽しみ方をしているという文脈ではなく、私自身がアイドルを好きになったときにそういう感情を抱いてしまう瞬間が過去にあった、という経験から不安になっているという話です)それに抗いたくなるくらいには、北斗くんの芝居はいっとううつくしく、ひかえめに、けれどはっきりとかがやいていた。なので、北斗くんのことすごく好きだなと思いつつ、しばらくはおすすめしてもらった映像作品をゆっくり観て、時々キリエのうたのことを思いだし、年明けの夜明けのすべてを楽しみにする、というような生活を送っていた。今の私の立っている場所から振り返れば、その数か月は足踏みをしている時間ではあったんだけど、その期間はとてもおだやかで、幸福で、もう人生において北斗くんのことをそういうふうに好きでいる時間はきっと戻ってこないから、思い返せば楽しかったし、良い時間だったね。
そういう感じでしばらくはアイドルの、特にSixTONESの松村北斗とは距離があったのに、その距離がいとも簡単にあっさりと破壊されてしまったのが、慣声の法則のドーム公演をDVDで観たときだった。
実は慣声の法則自体は、ちょうど偶然なぜかわからないけど(思い出せないけど)発売日に渋谷のタワレコでみかけて「買っとくかあ」なんて気軽な気持ちで初回と通常を買っていて、でもなんとなく観るのを後回しにしていたというか、そのうち観ようかなと思って寝かせていた。買ってから観るまで、長めのインターバルがあったような気がする。DVDを観たのも、気合を入れてよしみるぞ!というようなこともなく、友人とうちで夕飯を食べているときの会話の流れで「そういえばSixTONESの円盤あってさあ」「え、観ようよ」「みるか」みたいな、そんな感じだった。アリーナとドームがあるけどどっちみる?となって、なんとなくドームのほうが初心者が観るにもみやすいかな?とか多分それくらいの気持ちで選んで再生した。
それで、もう、本当に、一瞬で「あ、だめだ、好きだ」ってなった。アイドルの松村北斗って、まじで、めちゃくちゃ、ほんとうに、信じられないくらい、かわいいしかっこいいしうつくしい。うそでしょ、何、え、こんなになんですか?北斗くんて、こんなにも、こんなにもアイドルなんですか。待ってほしい。待って、待って、まだ待って。どうしよう、どうしよう、かわいい!
知らない北斗くんがそこにはたくさんいて、その全部が爆発するみたいに輝いていて、情報過多で観てる間ずっと息がしづらかった。こんなふうに歌って踊る北斗くんにいっそ乱暴なくらいのつよさで心をつかまれるなんて想像もしていなかった。ふわふわの茶髪に、やわらかな曲線の白い腕、薄い上半身のライン、男性的な重みを感じる下半身、ふっくらとした唇も、うつくしい喉仏も、完ぺきに配置されたほくろも、鼻梁線のただしさも、夜空みたいなひとみも、全部ぜんぶあまりにも「好き」で、どうしようもなく、一瞬にしてアイドルの松村北斗くんに心を奪われてしまった。神さまが、正しい線だけで描いた絵画のようなひとだとおもった。
俳優の仕事だけをみている時には知らないことがたくさんあった。あのうつくしい喉仏を震わせて発される低音の、精神と直接繋がってるんじゃないかって思うようなテンションの張り方も、ダンスのときに誰より高く跳ぶ身体能力も、彼のアイドルとしての表現のすべてが知らないもので、本当に久しぶりに「好きになるかどうかを選ぶことはできない」という私のアイドルオタク教本のいちばん最初のページに書いてある命題を思い出した(概念上の話です)(ちなみに最後のページには「他者をコントロールすることはできない」と書いてある)。理知ということばが似合う瞳がステージの上で狂暴ささえ滲ませて輝くすがたに衝撃を受け、メンバーと楽しそうに笑いあう表情のやわらかさにぐっときた。視線ひとつでファンの感情を揺さぶるアイドル仕草に「これが…北斗くんの技……!武器!スキル!」といちいち大騒ぎをして、Driveの北斗くんの「Boooon」で一回絶命した。これが、アイドルの北斗くんを知った、アイドルの北斗くんに正真正銘「出逢った」瞬間だった。
2023年の終わりがけに北斗くんとそういう出会い方をした私は、みるからに浮かれていて、慣声の法則を観たあとしばらくは友人らを掴まえてはそのはなしをしていて、これから先、このひととどういうふうに付き合っていくのか、まずはどこから彼を知っていくのか考えて浮足立っていた。しかもちょうどSexyZoneのドームツアーもあって、それが本当に最高で、2023年末のわたしは無敵だったとおもう。せっかくだし、北斗君の話をするアカウントをつくろうかな?とか、ファンクラブにも入ろうとか、そんなことをあれこれ考えながら過ごしていた気がする(実際は12月は引っ越しや仕事や年始の準備で立て込んでいてアカウントも作れなかったしファンクラブにも2024年になってからしか入れなかったのだけれども)これからもっといろんなことを知って、考えて、好きになっていくひとだと確信していた。アイドルの松村北斗を知るのはなあ…なんて言ってられなくなってしまった、だって、そこには確かに光があったから。
そして、話が冒頭に戻るわけだけれども(長い……)、1/8に私の世界は一度終わり、その衝撃とあまりにも大きな痛みによって(誰も悪くない、あくまでも私自身の内面の話としての痛みによって)、突然これまで当たり前に好きだったひとたちを、アイドルを好きになるのがものすごく怖くなった。好きでいることと解釈すること、言葉にすることを切り離せない私にとって、好きな人を長い間「誤読」していたのかもしれないという恐怖は、次の一歩を踏み出すことを、アイドルを好きになるということへの勇気をしぼませるにはあまりにも有効だったし、そもそもこれって他者へ向けてよいまなざしなんだっけ?ということもわからなくなって、立ちつくしてしまった。年が明けて落ち着いたらアカウントを作ろうと思っていた気持ちもなくなって、こっそり眺めていたSixTONESのファンアカウントのリストも削除した。誰のことばも聞きたくなかったし、SexyZoneのアカウントへのアクセスも減って、TLをみる回数も激減した。時々浮上しては次の瞬間には落ち込んで、どうしようもなく感情をコントロールできない日々だった。
全部やめようっておもった。やめるっていうか、やれないよっていう気持ちが近かった気がする。あの頃友達と交わした会話のなかに「わかる、と思っていたことが、本当は何もわかってなかったんだって知るのはとても怖い」という言葉があった。当たり前に人間同士、完全に互いを理解しあうことなんてできるわけもなく、そもそもアイドルとファンなんていうのは相互コミュニケーションの関係性でもなく、こちらが勝手に彼らの曖昧さを自分の希望の光にしているだけなのだから、わかってなくて当たり前なんだけれど、紡いだ祈りが否定されるのはやっぱり怖い。だから、もう、同じ愛しかたはしないし、できない。愛したものが変わることが怖い、変わりゆくものを「愛するもの」から「愛したもの」にしてしまうことも怖い。変化についていけず、立ち止まって、亡霊になってしまうくらいなら、最初からそういうふうに好きになんかなりたくない。永遠じゃない愛なら、ないほうがいい。今思えば極端すぎるし、笑っちゃうくらいドラマチックで感傷的だけど、そのときは本気でそうだった。まあ、その頃は残業後の帰り道、iPhoneから流れてきたSexyZoneに突然道端で大号泣するような精神状態だったからね。
でも、もう全部何もかもいやだやめる、と言いながら、『夜明けのすべて』だけはどうしようもなく楽しみで、映画を観たら読もうと思って北斗くんのインタビューが掲載されている雑誌は目についたものは全部回収していた。こういうところがオタクだなとおもって今このブログを書きながらその頃に発信した言葉を見返して笑っている。なんだかんだいいながら本屋で見かけるたびに雑誌を買っていて、長々と解釈まみれの感想を書いてるし。元々三宅監督の作品が好きだったし、テーマも、特報のうつくしさも何もかもにfor meの期待があって、映画を観たら絶対に北斗君の解釈が知りたくなる確信があったもんな。大人になると、良くも悪くも、なんとなくそういう自分の手綱の握りかたを心得てしまってる瞬間ってあるよね。
2月に夜明けのすべてを観て、北斗くんのインタビューを読んだ。パンフレットも買ったし、できる限りいろんな媒体で何を言ってるのか知りたかった。映画もいろんな人と一緒に観に行って、観に行った人といろんなはなしをした。映画自体のはなしもしたし、映画から派生して社会のはなしをしたり、北斗くんについて私が思ってることを聞いてもらったりもした。RiCE、キネマ旬報、+act.、SCREEN、CHEER、シネマシネマ、T、他にもたくさん雑誌を買って、読んで、北斗くんの言葉のひとつずつに触れて、北斗くんが大切にしたいと思っていること、作品への向き合いかた、自分自身について、グループの存在、アイドルとしての松村北斗を、北斗くんのことばというフィルタを通してほんの少しだけ知った。
どのインタビューでも、ブログでも、北斗くんの大切なものが、丁寧に、ことばの限界まで表現されていた。決して押し付けることなく、でも伝わると信じて(信じようとして)発されてることばに、好きになりたくないなんて、失礼すぎるとおもった。だって、北斗くんのことばって、本当は誰にもみせてはいけない、こころのうちがわの、どうしようもなく柔らかなところを差し出してる。山添くん(夜明けのすべてで北斗くんが演じた役)だってそうで、山添くんの生々しさや質感や、彼の持つ人間らしい愚かさやどうしようもなさや、けれど確かにいつも寄り添っている善性は、北斗くんのなかにあるふつうだったら誰にもみせないような深くてやわい部分を滲ませている気がして、だからこそ彼の芝居に私はこんなにも心が揺さぶられるんだとおもった。触れられたくない、触れたくないところをむきだしにする勇気を以て表現と向き合うひとに、そのひとのうみだすものを好きな自覚があるわたしが、私だけ「好きじゃなくなる日が来るのが怖いから好きにならない」なんて、私が、私に対して不誠実すぎる。不確かな未来におびえて、変わってしまうことを恐れて愛さないなんてできない。そうやって、夜明けのすべての公開を経て、私は私のなかで、北斗くんを好きなわたしになった。
北斗くんをみていると、信じるということへの勇気がでる。北斗くんが先日KingGnuの新井さんのラジオに出演したときに「最初はちょっと無理して信頼してるうちに実際信頼とかいろんなものがうまれていって」と言っていて、私は別に北斗くんと相互の関係性を持たないし、究極的にはファンとアイドルは双方向でなくてもよいと思っているので、これは北斗くんへの信頼というより、アイドルを好きな私への信頼のはなしなんだけど、「無理して信頼する」というのはまさに今わたしがしようとしていることだとおもってはっとした。北斗くんのことばをきいていると、そういう「わたしが持っていて、でもうまくとりだせていないものにかたちを与えてくれる」と感じる瞬間がある。そういうひとに、このタイミングで出逢ったことを自由に愛そうとおもったし、愛したい。今じゃなかったらきっと、こんなに長い文章を書くようなこともなかっただろうし、もしかしたら芝居の好きな俳優のひとりのままだったかもしれないし、でもいつかはこうなっていたような気もするし、こなかった未来のことはわからないけれど、でもいまは確かにこうやって、北斗くんのことを考えながら、よく晴れた穏やかな日曜の午後に、ノートパソコンの前に向かって文章を考えています。
好きになっていくことの経緯を「沼落ち」ということがよくあるけれど、私にとって北斗くんとの出逢いは、底なしの海のなかに沈んでいく途中ですくいあげられたような、そんな感覚のほうが近い気がする。北斗くんを好きになって、北斗くんのフィルタを通した世界をみせてもらって、やっぱり私にとってアイドルを好きな世界ってうつくしくて幸福で失いたくないものだって感じることができた。そういうふうに思えるようになったことで、北斗くんへの気持ちだけじゃなく、健人くんへの気持ちとも向き合えるようになって(ここでは割愛するけれど、すごく前向きになれた部分がたしかにあった)ああ、好きになってよかった、っておもった。そういうふうに思わせてくれてありがとう、北斗くん。北斗くんのことを星と例えるのなら、あなたという星は、この冬、たしかに私の道しるべでした。星なんかみえないと泣いていた私に、雲の切れ端からその光をみせてくれて、私の道をそっと照らしてくれてありがとう。海の底に沈まなくてよかったって、今こうやって陽光のまぶしい窓辺でnoteを書きながら思います。
私はもう大人で、初めて誰かのファンになってから、いろんな人を好きになって、そのなかには普段はほとんど思い出すこともなくなってしまったひともいて、この特別な感情が永遠じゃないことを知っている。好きの気持ちは日々移ろいゆくし、かたちを変えることもあるし、相手が変わっていくこともある。けれど、だからこそ、いま、北斗くんを好きになれてよかった。永遠じゃないからこそ、この瞬間の気持ちをちゃんと残しておきたい。いつかまた同じように苦しい夜が訪れるのかもしれないけれど、そのときに私が何を思うのかはまだわからないけれど、今この瞬間のきらめきをこの目に焼き付けたいとおもった。
この愛はきっと永遠じゃない、でも、恐れずに愛すよ。
(SixTONESを知っていったいきさつや心境の変化についても書きたかったんだけどあまりにも長くなりすぎたので今回は北斗くんの話だけをかきました。近いうちにSixTONESのことやメンバーのことも備忘しておきたい)