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素面で、1人で

大学生のとき、サークルの飲み会などでお酒を飲み始めた。サークルの集まりのあと、渋谷の行きつけの居酒屋を予約して集まって飲む。時には2次会、3次会と朝まで飲み明かす。今となっては全く価値を見いだせないばかりか愚かとすら思えるこのような行為も、これが大学生や~と、なんか特別な時間を過ごしているような気がしていた。そのなんとも言えない感覚は20年経った今も思い出すことができる。昔の感情にリンクしている部分があるんだろうか。それ以来ずっと、働き始めてからもお酒を飲むことはぼくにとって日常だった。仕事のあとは帰宅後の1杯、というように。

それがここ2ヶ月、アルコールを口にしていない。2ヶ月も飲まないというのはおそらく初めてのことである。正確には1度だけ、TOEICの試験のあとにふらっと入ったおでん屋で、1人打ち上げ的な気持ちで開運純米吟醸を注文した。おいしかった。しかし期待していたほどではなかった。というのは、久しぶりにお酒を飲んだら「やっぱ酒はいいなぁ。」となるのだろうと思っていたのだが、そこまでではなかったのだ。おかげで、ぼくはその後も順調にノンアルコールな日々をストレスなく続けている。というより、ノンアルコールの日々の調子がよいからこそ、また飲み始めることを考えるのは少しこわい。

別に禁酒しているわけではない。今、金曜日の仕事が終わり、1週間分のストレスと疲れをサウナで汗といっしょに流し、さっぱりしてきたところだ。冷えたよなよなエールとか飲んだら一番最高なシチュエーションで書いている。飲みたければ別に飲んでもいい。でも、結局今日も思いとどまった。なにがそうさせているのか?それはお酒を飲まなくなって取り戻したかもしれないものを実感し、その状態をキープしていたいという、シンプルでポジティブな欲望だ。それはたとえば、快適な睡眠と気持ちのいい目覚め、冴えた頭、はっきり見える視力など。(追記:睡眠はその後やたら早く目が覚めるようになってしまい課題あり。早朝覚醒ってやつか。因果関係などはわからない。もっとぐっすり寝たい。)

帰宅後に缶ビールをカシュッと開ける。その音はずっと、緊張から解放されリラックスモードに入るスイッチとして機能していた。まるで魔法のようだ。アルコールによって快楽に関連する脳内物質が分泌されるとのことだが、単に気持ちいいだけではない。アルコールを摂取したあとは明らかに頭の働きがにぶっており、とても何かをちゃんと考えられるような状態ではなくなっている。この事実を直視すると、次のような疑問が生まれる。帰宅後、缶ビールをカシュッと開ける。それは「向き合わない」時間の合図だったのではないか?と。気がつくとぼくは、オールフリーを買うようになっていた。

お酒以外にも、最近やめたことがある。母と話すことだ。はずかしい話ではあるが、いい年してぼくはいろいろなこと、たとえばTOEICでいい点数が取れたとか、あの会社の株を買うとか、ランチがおいしかったとか、仕事しんどいとかそういった日常のことを母に話していた。いわゆるマザコンてやつだ。いろいろなできごとを母に話すことで、半分満たされているというような依存状態だったかもと思う。一方で母は最近ぼくに、早く結婚しろと頻繁に言ってくるようになっていた。母とぼくの年齢を考えると、気持ちはわかる。しかしつらい。自分が結婚したいと思ったらするのであって、母が結婚してほしいから結婚するわけではないからだ。結局2度とその話を聞きたくなくなって、母に日常的にいろいろなことを話すのをやめた。

別に全く話さないようにしているわけではない。この前は誕生日に、誕生日には母の年齢を意識せざるをえず、それゆえ結婚のことも少し頭によぎりつつ、おめでとうと伝えた。しかし以前のようにいろいろなことを話す時間はもう戻ってこないだろう。なにがそうさせているのか?それは母と話さなくなって手に入れたかもしれないものを実感し、その状態をキープしていたいという欲望だ。それは孤独という状態。この年齢になって、今ごろになって、ぼくは思う。考えていることを母に話す。それは「孤独に、自分1人で世界と向き合えない」弱さだったのではないか?と。

「男は、母親が死んでからやっと一人前になんのよ」リリー・フランキーの「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」で松田美由紀さんが言った言葉を思い出した。確かに母が死んだら、男は強制的に自分1人で世界と向き合わなければならなくなる。でもぼくは、母が生きているうちに一人前にならなければ。そしてPLANETSの宇野さんがおっしゃっているように、母ともう一度、大人同士として出会い直さなければ。

2つのやめたことは、ぼくの世界に対する向き合い方を変えた。酒を飲まないことによって、課題に素面で向き合うことになった。母に話さないことで、孤独に世界と向き合うことになった。努力して変わったのではない。この変化は、2つの「やめる」という行為によってもたらされた、ただの状態に過ぎない。1つの例として最近英語の勉強がはかどるようになったが、これは努力しているのではなく帰宅後にビールを飲まなくなったら自然にそうなっただけだ。しかしもし、帰宅後にビールを飲み、さらに1時間英語を勉強するとなると、努力が必要ではないだろうか?その場合、なぜ努力しなければならない状態になっているのだろうか?

今まで、すでにある生活に新しいなにかをどんどん足していく努力をすることが生活を豊かにすると、わりと強く思い込んで生きてきたけど、逆に引くことで自分の状態をガラッと変えてしまうアプローチがあることと、その可能性に気づいてしまった。長く体に染み付いたモノや行動を捨てるのは不安やさみしさを伴うが、空いたスペースに新しい風が吹き込んでくるのはとてもワクワクする。もうぼくの考え方には、不可逆な変化が起きてしまった。1つ、また1つとやめるたび、ぼくの心には大きな穴が開くが、その穴は、まだ知らないなにかを受け入れることができる可能性となっていくだろう。

↓酒に関する後日談。


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あのこね anoconne
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