無職になって1年経った

うつになって仕事を辞めてから1年経った

自然が好きだという理由から、自分は公園事業に携わる仕事をしていたのだけれど、2023年の夏ごろから心身に不調がみられるようになった。

きっかけはよくわからない。もともと体調を崩しやすい虚弱なところがあったが、それが行き着くとこまで行き着いたのかもしれない。頼れる人がいなかったのも大きかったかもしれない。両親とは絶縁状態で、地元を捨てるように飛び出してからはろくな友達もいなかった。

心身に不調をきたしてからは心療内科に通い出し、薬を飲みながらだましだましに働いた。しかし末期の頃には、職場に行って人と話すことを考えると動悸が激しくなり、不安が止まらなくなる。どう考えても限界だった。自分は仕事を辞め、療養することを決めた。

なぜ自分の心は限界に達したのか

自分が地元を飛び出したのは大学2年生の頃だ。

振り返ってみれば、自分の実家はごみ屋敷のようなところで、ライフラインが止まることもしばしばあった。両親は水道が止まっているのに寿司を買ってくるような人間で、それを買う金があるなら水道代を払ってよ、と言うと激高して包丁を振り回すような精神的に不安定な人たちだった。

そういった両親と暮らしていくうちに自分にもそういった不安定さが伝染したのかもしれない。

そういった家庭だったものだから、大学進学を決めたときもかなり大変だった。

学費は高校1年生からこつこつとバイトで貯めてきた。夜学なら学費も安く、働きながら通うことができた。進路相談で家庭環境を話したとき、このやり方を提案してくれた高校の先生には感謝しかない。

大学2年生になったとき、住んでいた実家は家賃を1年近く滞納し追い出されることになった。加えて母親は妊娠していた。水道が止まったときに寿司を買ってきた心理と同じである。両親はいつも強烈な不安から逃げるために、現実逃避できる手段を用意するのだ。このとき、両親は住処がなくなる不安から子供を作ってしまった

唖然とした。そのころ、僕には小6と中3の妹がいた。2人ともこれから新たな進学を控えている身だった。しかしいまの家にはもう住めず、新しい住処を見つけなければならない。僕はもうこんな両親と暮らし続けることに限界を感じた。

新たな住居や出産に伴う費用は、僕の学費の貯金から出すほかなかった。高校1年生からこつこつと貯めてきた学費はここで尽きることとなった。

反省としては、奨学金を取っておけばよかった、ということだ。このころ、僕は借金を非常に恐れていた。それは身近に強烈な反面教師がいたからだった。こんな両親である、金融の信用情報はブラックだったし、それゆえに不便することが多々あった。借金は恐ろしいものなんだと子供ながらに思っていた。

大学は休学することにした。
僕には計画があった。復学後1年間の学費を休学中に用意し、その後はいい成績を取り、給付奨学金を取る。僕の家庭は非課税世帯だったから、この方法なら大学を辞めることなく何とか卒業できると思った。

でも実家で両親と住み続けることはもう不可能だと思った。いずれ閾値に達したら僕はこの両親を死ぬまで殴り続けてしまうだろう。この時は本気でそう思ったし、それが恐怖だった。離れることが最善だと感じた。

その後は似たような家庭環境だった友達とルームシェアをすることにし、僕は地元から出ることとなった。仲のいい友達もそれなりにいたけれど、掃き溜めのような場所だとも思っている自分もいた。この地獄から出られるなら、すべて捨ててしまってもかまわないと思った。

休学後はしばらく両親と連絡することはなかった。休学中はバイトをしながらなんとか生活費と学費を両立しながら貯めて、2年後に無事復学を果たすことができた。

2年ぶりに大学2年生として復学を果たした自分は、死に物狂いで勉強した。結果的に成績も良いものがとれたし、3年生の頃には給付奨学金を取ることとなった。

しかし給付奨学金を取るにあたって、両親との連絡をしなければならなくなった。やっと縁を切れたと思った矢先、奨学金の制度上、両親に書類を用意してもらわなければならなかった。不安定な両親の機嫌を取りながら、なんとか申請の書類を用意することができたが、このころには両親と暮らしていた頃のフラッシュバックがひどくなっていた。突然、包丁を向けられたときのことが蘇って、「今から殺しに行かなきゃ」と激情が湧く瞬間も増えた。自分が怖かった。

結果として給付奨学金を取ることができて、自分は大学を6年かけて卒業することができた。大学時代からバイトしていた公園事業での就職も決まり、苦しい時代は終わったと思った。

でもふと思ってしまった。あれ、俺なんのためにここまで生きてきたんだっけ?
大学時代は大学を卒業することが人生の最大目標だった。しかしそれを失ったいま、何を目標に生きればいいのかわからなくなっていた。

自分が何を好きで、どんなことに喜びを感じる人間なのか思い出したくて、自分の人生を振り返ったりしてみたが、蘇るのはつらいことばかりだった。そうではない瞬間だってあったはずなのに、つらいことばかりがあふれて止まらなくなってしまった。

無意識のなかで人が怖いと感じていたことを悟ってしまってからは、人と会話することが苦痛でしかなくなった。包丁を突き出してこられたらどうしようと本気で思ったりもした。そこで人に対する自分の認知が、とても恐ろしいものになっていたことに気付いた。もうとっくに限界だったのだ。大学卒業という目標に隠れて見えなくなっていた――否、見ないようにしていたことが社会人になった途端あふれだしてしまった。

診断、うつ病。
地元を飛び出して走り続けた先には、何もできなくなっている人生が待っていた。

仕事を辞めて1年経ったいまの暮らし

1年経って、引きこもるに引きこもった先に思ったことは、今住んでいる家を安全基地にないといけない、ということだ。

安全基地があれば恐怖や不安に立ち向かうことができる。自分にもっとも足りないのはそれだと思っている。

仕事は働けそうならバイトをしながらフリーター、無理なら障害年金を取ろうと考えている。しかし現状、とても働けそうだとは思えないし、医師からも勤労できない状態だと診断されているので、おそらく僕は年金を取ることになると思う。まだ26歳なのに、社会からコースアウトしてしまうことへの不安が、またさらに僕の心身を不安定にさせている。

仕事を辞めてから、酒があまりにも増えた。酩酊のなかでしか安堵を感じられない自分がいた。最近は本当に危機感を覚えて、意識的に控えている。

天井を見上げるだけの日々が続いている。でも、「いま居る場所は安全なんだ、包丁も向けられないんだ、何も奪われないんだ」と考えると少しだけ心が落ちつく。自分はずっと死の危機を感じるような極限状態が続いていたのかもしれない。それなら疲れ果てても仕方がない。そう思える。

両親に関しては、もう許している。
そもそも最初からまともだったらこんなことにはなっていないし、両親にも精神的な援助が必要なんだと思う。今でもフラッシュバックは起こるし、そのたびに存在を呪うこともあるけれど、怒ったってどうしようもない。それよりも一生関わらず、自分で幸せの道を探していく方がずっと重要である。

似たような家庭環境にいる人がいるなら、まず安心できて安全だと思える場所を何としてでも作ってほしいと思う。

自分は、福祉が充実している日本に生まれて本当に良かったと思っている。そうじゃない国で、こんな状況だったら、きっと僕は自ら命を絶っていたと思う。

自分に対して思うのは、休め。とにかく休め。そしてまた歩き出すための体力を貯めるんだ。ということだ。

オチも何もないが、いま自分は安全に暮らしている。心身が疲れ果てているせいで不安から首を吊りそうになる夜もあるけれど、人生のなかで最も幸せな位置にいるとも感じている。だから、大丈夫。俺は大丈夫。

無職になって1年経ったら、少しだけ幸せになった。



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