殺伐スターバックス:ギグワーカーの憂鬱
ワープロソフトのカーソルは、同じ場所を明滅し続けている。
残りは12行、締切は8時間後。
12行という文字数は、それほど多くはない。一度閃けば、パッと書ける分量だ。
しかしながら、書けない。書いている私には分かる。満足いくクオリティで残り12行を書くためには、全体の構成を考え直さなくてはならない。一方で、残り8時間という状況で全体の構成を変える大手術を行うのは、いささか気が引ける。踏ん切りもつかず、かといって適当に付け加える文章も見つからず、ただただ時間だけが過ぎていた。
大きく伸びをして、ワードソフトの「閉じる」ボタンをクリックする。
適当にジャケットを羽織り、軽自動車に乗り込む。
10分ほど車を走らせると、行きつけのスターバックスが見えてくる。
扉を開け、注文を済ませる。ホワイトモカのグランデサイズ。
ブラックコーヒーでスタイリッシュにとか、期間限定のフラペチーノとか、そんな御託はどうでもいい。ホワイトモカのグランデサイズ。
スターバックスのエスプレッソコーヒーは、他のコーヒーチェーンよりもカフェインの含有量が多いことはよく知られている。苦い分、コクがある風味豊かなコーヒー…では全くない。スターバックスのエスプレッソコーヒーは、僕に言わせればただ苦いだけの代物だ。しかも意図的に苦く作られている。
僕が思うに、スターバックスのエスプレッソコーヒーは、上にクリームが乗ることを前提に、意図的に苦く作られている。スタバのコーヒーは、いわばケーキのスポンジなのだ。カフェインが豊富に含まれたコーヒーに、砂糖がたっぷり入ったクリームをぶち込む。改めて、なんて不健康な飲み物なんだと思う。もっとも、それを望んで、足繁く通っているわけだが。
コーヒーを受け取り、手頃な席に腰掛ける。
周りには大学生らしき集団がいて、ガヤガヤと話している。この辺りは大学が多い。見慣れた光景だ。いつも通りMacを取り出し、中断していた原稿作業に取り掛かる。
文章を書き続ける生活を始めて、はや三年が経過した。初めのうちは、がむしゃらに一つの案件に取り組んでいた。徹夜も当たり前のようにしたし、納得のいかない原稿を直前で全部書き直すこともあった。
そのうち、文章を書く仕事に慣れ、要領も良くなり、手の抜き方も覚え、がむしゃらに取り組まないと仕事がなくなる、という状況は脱した。しかしながら、常にちょっとしたスランプ状態に陥っているような感覚に陥ることもある。
ふと隣の大学生集団に目をやる。スターバックスに来て、マックを広げ、仕事をする社会人なんて、昔の自分が見たら「かぶれている」と思うだろう。スタイリッシュぶった、意識だけ高いやつだと。
窓ガラスに映る、くすんだ顔を眺めながら、窓の外に映る街並みを眺める。意識高く仕事に取り組んでいるように見える人間が、逃避行の末にスターバックスに来ているなんて、当時の自分には想像できなかっただろう。
メガネの縁を少し上げる。「Enter」ボタンを高らかに響かせる。
それでも僕は疲れているし、やつれている。殺伐とした生活に彩りを求めてカフェを訪れながら、結局仕事を始め、殺伐とした生活に戻っていってしまう。
原稿を保存し、「閉じる」ボタンをクリックする。
残りは5時間半、行けないことはない。とりあえず目処は立った。
すっかり冷えて、甘ったるくなったホワイトモカをすすりながら、店内を一瞥する。先ほどまでいた大学生はいつの間にか去り、店員さんも別の人に変わっていた。店にいる客も、学生らしき人が減り、代わりに社会人らしき人が増えている。
「アイスのスターバックスラテ、トールサイズ、お待たせいたしました」
カウンター越しに店員さんがにこやかに笑いかける。この時間帯、よく見かける店員さんだ。店内でのお客さんとのささやかなコミュニケーションに、やりがいを感じていそうなタイプ。ああいう接客は、何でも特別に見せたがる感じがして、少し苦手だ。
コンビニの接客コンテストで、「最近お目にかからなかったんですが、どうしたんですか」「これからのお仕事も頑張ってください」などと、店員が客のプライベートに踏み込むような声かけをしていたのが、物議を醸したことがあった。「そこまでやらせるの?」「気があると勘違いする客が出てくるのでは」その時出てきた意見はもっともだと思う。一方で、あくまで「接客コンテスト」での接客の演技であり、現実との乖離があるのは、ある意味仕方ないとも思った。
その点、スターバックスでは、客に一歩踏み込んだコミュニケーションというのが、コンテストではなく現場で行われている。僕はこっちの方がよほど物議を醸すべき対象ではないかと思う。キラキラした学生だけでなく、少し疲れた社会人もよく利用するコーヒーチェーンで、プライベートに踏み込むようなコミュニケーションを取るのは、それこそ気があると勘違いする客も出てくるのではないだろうか…
と、その瞬間。
パチリ。
目があう。
さっきの店員だ。
物思いに耽っていた私は、それとなく目を逸らすのが遅れてしまう。
微笑みを浮かべ、生まれた微妙な間を掻き消そうとするが、表情筋の動きが硬く、滑らかに会釈出来ない。
『なんてことだ。これじゃミイラ取りがミイラになったみたいだ。』
眼鏡を外し、顔を手で覆う。
『気味悪がられたかもしれないな…』
そう思いつつ、眼鏡を着け、ぼやけた視界を取り戻す。
彼女はまだ、私を見つめていた。
意味ありげな笑みを、明らかに私に向けている。
何なんだ。一体何なんだこれは。
視線を慌ただしく動かし、思考を張り巡らしながら、急いで後片付けをする。本当にこれではミイラ取りがミイラになったみたいだ。
雑に席を片付け、スタバから去る私。
「またのご来店を、お待ちしております。」
背中から声が届く。
果たして誰がそのセリフを発したのか、それとも空耳なのか、そもそもスターバックスの店員がそんなことを言うものなのか、私には全く分からなかった。
家に着き、原稿を脱稿した後も、しばらくうわの空だった。
本当にあれは、何だったのだろう。
僕の中には悶々とした感情が渦巻いていた。