傘
一面の白濁とした空には、布地のように、薄い陰影が波打っていた。青ざめたような、力ない光を受けて、コンクリート造りの図書館のなかを歩き回る人の姿が、いかにもたよりない、かりそめのものに思われた。ガラス越しに直進してくる白色灯の閃光が、じっとりとよどみ、地上に垂れ込める空気に、痛々しい裂け目を開いた。図書館は、光の数を増してゆきながら、開館を待ち受けていた。緩慢な休日の朝であった。私は図書館の表にまわり、閉館、の文字が見られる錆び付いた立て看板を見上げると、玄関の奥に見える、大儀そうに秒針を進める時計に目をやって、図書館の前を行き過ぎた。その時計は実際、二分ほど遅れていた。時刻を確認したスマートフォンをパーカーのポケットに閉まった。黒い画面に、桜並木の葉むらとたゆたう雲とが、白黒の陰影として写り込んだ。池に上がってゆくと、陰鬱な虫の声が、静かな朝の底を乱していた。池の周囲を歩きながら、ジャージ姿の老人たちがすれ違っていった。彼らは遠くから音もなく近寄ると、速打つ心臓のような律動とともに、私の横を走り抜けるのだった。今日という日を、誰も眠たげに、物憂そうによぎっていった。ヒヨドリの神経質な声が時折土手の下から響いた。
池の面は、垂れ込める雲のあわいを反射して、白く沈んでいた。岸近くでは、池に覆いかかる木々が雲の白い光をさえぎって、黒々とした影を落としている。微弱な風に撫でられて、池は痙攣のように波立った。私が木柵に手をかけて歩みを止めていると、物欲しそうに鯉が泳ぎ来て、カルガモは滑空した。大きく横に羽を広げたカルガモが、胸をそびやかし、水を切って着水する。私は後ずさりして、石の上に腰掛けた。湿った、冷えた石の感覚が背中を上り、汗ばんだ身体に震えを走らせた。リードで繋がれた柴犬が、座り込んでいる人間の姿を一瞥したが、リードに引かれるままに道をまっすぐ遠ざかった。足元では鳥の糞に、蟻がたかっていた。何とはなしに胸が悪くなる光景だった。じっと目をそらさずに糞の周りを回っている蟻の群れを見ていると、私はふいに、昔ここで蟻を捕まえたことを思い出した。そして同時に、その後蟻を捨てたことを思い出した。
緑色のプラスチックケースに、砂糖の塊をいれて、石の腰掛の横の、つつじの植え込みに、手を差し伸ばして置いた。石の影になって見えないことに辛抱できず、植え込みに手を突っ込むと、目の前に蟻の巣穴の出口を発見し、植え込みの手前に置き直した。しばらくじっと眺めていると、一匹の蟻がケースの中に入った。私はまだじっとしていた。最初の蟻がケースから出ると、しだいに蟻が一筋の列をなして、ケースから砂糖を運び出していった。蟻の列は何もないところで迂回し、蛇行しながら、区別のない一つの生命体のようだった。時折列から迷い出た蟻が、ふらりどこかへ消えていった。ケースの中が蟻でいっぱいになったのを見ると、私はケースを持ち上げ、手早くケースの蓋をしめた。緑色の透明なケースの内側では、まだ出口がふさがれたことに気づかない蟻たちが、振動に動揺して右往左往しているようすが見られた。
家に帰ると、私と弟は、蟻の育成キットに、捕まえてきた蟻を移した。青く透明なゼリーでできたそのキットに蟻を入れれば、蟻がゼリーを掘って巣を作るさまがわかるのだった。いやな顔をしている父に気がつくと、私たちはゼリーを玄関の靴箱の上に据えた。梅雨時の湿った匂いが玄関扉の隙間から入り込んで漂っていた。弟がケース蓋を細く開けて青ざめたゼリーをついた。
一週間ほどで、見事な巣の形ができあがっていた。ケースの横に張り出した餌入れに、私と弟は競い合って砂糖を入れた。蟻のからだを、細かな透明の産毛が覆っていて、しなやかな曲線のからだが、玄関の薄暗い光のもとでえも言われぬ秘められた魅力を放った。巣の出口には青いゼリーがすり鉢状に積み重なり、その造詣に子供らはうっとりしていたが、巣の完成を境に、興味は急速に失われていった。私は、ダンゴムシに興味を移し、ボール紙で迷路を作るのに熱中していた。
蟻の巣の惨状に気がついたのは母だった。父は気がついていたらしいが、何も言わなかった。母は青ざめた顔をして、子供らに蟻の巣を見せた。巣のあちこちに、白くふわふわしたカビが生じていた。数匹の蟻の死骸が、ゼリーにめり込んでいた。私と弟は押しつけあったが、結局私が蟻を捨てに行くことになった。家を出る私に、母は傘を持たせた。
元の巣に戻れるように、同じ場所で観察キットの蓋を開けた。蓋を開き、キットを横に倒すと、蟻はそろそろと青いゼリーから這い出した。ゼリーの中には、とうとう死んだ蟻だけが残った。蟻の黒くメカニックな身体を、綿のようなカビが覆っていた。
キットから出た蟻は、しかしいつまでも巣に入ることができなかった。巣穴に近づくと、穴から現れた蟻が、顎を大きく開けて、元の仲間を追い払った。何度繰り返しても同じことだった。キット帰りの蟻たちは、元の巣穴に帰ることができず、私がキットを膝に抱えていたために、キットにも帰ることができなかった。蟻はいつまでもうろたえていた。私はどうすることもできず、そのようすをじっと見つめていた。ぽつりぽつりと雨が降り出し、私はアニメのキャラクターがプリントされた傘を開いて、家まで駆け出した。
今、ツツジの植え込みの上部には、蜘蛛の巣がかかり、薄っすら千切れ雲のようだった。朝方降ったらしい雨の雫が、弱い日差しのもとで輝きもせずに、さめたガラス細工のように蜘蛛の巣にぷつぷつと連なっている。雲と雨。ひやりとした感覚は全身に広がってゆき、見上げると、細かな霧雨が降り出していた。リュックサックから無地の折り畳み傘を取り出すと、気の進まないままに傘を広げた。私はそのまま、池の周囲に沿って歩きだした。雨の滴は少しずつ重くなり、質量を持って傘をたたいた。
池の横の道に入り、しばらく山道を進んだ。夏に向け湧き立つ緑の容積が、闖入する人間を圧しつけた。時折緑の切れ目から斜面が降りて、ほの明るいりんご畑が開けた。緑銀色の草が、果樹の根元でうねっている。黄色い電灯が、先日の嵐で葉や小枝が散乱したアスファルトの道を、しめやかに照らしていた。道の上に白いあじさいの茂みが、暗い森のなかで、けざやかな光を灯していた。私は傘を広げたまま、道に傘を置くと、雨からかばいながらスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。そのとき、木々がふくらみ、ごうと風が吹き寄せた。あっと息をすると、風を受け止めた傘が舞い上がり、山の傾斜の下、生茂る茂みの奥に転がっていった。私の手は空をかいた。あきらめきれずに道から身を乗り出したが、木々と草が立ち塞がり、とても降りられそうになかった。意地になって、白あじさいをカメラロールに納めた。
これでは、図書館に入ることはできなかった。空のリュックサックに、スマートフォンをしまい込んだ。灰色のパーカーは黒く染まってゆき、白い空の底部に沈み込んだ。私は暗澹たる心持ちで、町までの道を辿った。池から街に降りる坂を下っていると、背後から車の近づく音がして、私は道の脇に立って車が通るのを待った。赤いN-BOXのなかでは、後部席で小学生くらいの子供が立ち上がり、隣に座る青年が彼を支えていた。運転席に座った女性は、にこやかに笑っていた。青年も笑っていた。さっと一瞬で通り去ったそのイメージが、あざやかに脳裏に刻み込まれた。あまりに多くのものが、あの遠い日から現在までを、通り過ぎて行ったような気がする。あの頃の自分と今の自分の同一性を、いや、昨日の自分と今日の自分の同一性だけでも認めるならば、今すれ違った赤いボックスカーの人々と、自分の同一性をも認めなければならないはずだった。誰かが葬送行進曲を奏でている。
家を過ぎ、国道沿いの歩道を、蕭然と進んでいった。雨は静かに降り続き、水たまりを切って、車が走り抜けていった。雨は、霧雨と雨の間をさまよっていた。雨が強くなると、並木の下を進んで雨を避けた。雨が弱まると、今度は空の下を歩いた。雨水を溜めた木々の葉が、雨が弱まってから、あだかもそこだけ雨雲が残っているかのように、滴を落としてよこすのだった。道横の空き地で立ち枯れた枯木が、白白した空に黒い亀裂を走らせていた。湿って重くなった体を、あてもなく運んで行った。街の建築は次第に伸び上がり、平家の民家や八百屋に変わって、ホテルやマンション、雑居ビルが並んだ。
私は百貨店の前の通りとぶつかる小道で立ち止まった。小道の出口には小さな個人経営の電気屋があって、店舗前の雨に濡れた路面に、ちかちかするテレビの反射光をもたらした。群衆は信号が青になるのを待っていた。車が右手から私の正面の道へと曲がり、信号が変わった。人々は一斉に歩きだした。
傘を差した人々の群れが、互いに人の群れをすり抜けて、ぶつかることもなく、しずしずと向こう岸へと渡ってゆくのだった。透明なビニール傘や、黒や青の傘に混じる、赤色、黄色の鮮やかな傘が、蒼然とした淡光のなかで、いよいよ沈鬱な印象を増した。私はそれらの行き過ぎる群衆を前にして、傘も差さずに、雨にさらされ、隔絶の感を骨身にしみ込ませながら、旅人のように立ちすくんでいるのだった。茫然と惚けたように立つ私に目もくれずに、群衆はおのおのの道を辿ってゆく。不意に、死ぬとは、つまるところ、もう傘を差さないということなのかもしれないという考えが浮かんだ。百貨店の黒い柱が、亭々とそびえ立っていて、たしかに、秋が来れば草木は枯れて、枯れ藪の向こうから、私の傘が現れるだろう。しかし、その傘を差す人間はもういないだろう。その人間は、飛び去る傘を追いかけて虚空に手を伸ばした、その瞬間絶命した。通り過ぎる赤い車のイメージ……
再び車が流れ出した歩車分離式交差点に背を向け、私は家に取って返した。雨はふたたび霧雨へと変わってゆき、しだいに遠のいていった。路地に面した民家の雨樋から、差し始めた乳光を控えめにきらめかせながら、とうとうと雨水が流れ出て、赤煉瓦の水受けに注がれた。足元の側溝から、雨水を流す音が、ごうごうと響いた。アスファルトの上を這うカタツムリを避けながら、私は、国道沿いの歩道に出た。
雨に濡れた路面が、日の光を浴びて輝かしくなっていた。縁石から生えたエノコログサが、みずみずしい緑の穂を風に揺らした。車がはねる水溜りのしぶきが、光を撒くように広がった。私は、簡素な作りの学生用アパートの前に着いた。緑に塗られた屋根は、小止みなく降り積もる排気ガスの細かなチリが雨によって洗い清められ、いつになく清浄な感じがした。私は郵便受けの中から、雨に湿った遠方からの便りを取り出した。父からの手紙だった。
と、数メートル前の、同じような学生用アパートに停まっていた佐川急便のトラックが、おもむろに動きだした。すると、トラックの平たい屋根の上にたまっていた雨水が、慣性の法則に従い、動き出すトラックから取り残されて、空中に投げ出された。トラックは排気を吐き、ぶるんと振動して国道の車の列に合流した。投げ出された雨水は、打ち水のように、大きな弧を描いて、地面に流れ込んだ。
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