ダイヤモンドのような空を見たくなって出かけたんだ。外出するのはおそらくは三週間ぶりで、愛する人のことなんて少しも思い浮かばなかった。僕が愛していたのは若白髪が目立つ茶色がかった髪をした彼女で、彼女の虹彩はいつも哀しく澄んでいた。僕はコンタクトを外すため眼球に触れるたびに、彼女の虹彩のうつくしさを思った。それでもそのときは、彼女のことなんて少しも思い浮かばず、ただどこまでも透明な空に、胸いっぱいの蒼穹に抱きとめられて、最後の息をダイヤモンドのような空に呼吸したいという思いのみが僕の心を領していた。

 住宅街の中で空は狭かった。智恵子の言うことが僕にはよくわかっていた。東京には空がなかった。智恵子の空は阿多多羅山に、そして僕の空はどこにあるのかわからないが、僕は僕のものではない空を仰ぎ、ほんとうの空を求める求道者だった。あるいは僕の空は岩手にあるのかもしれなかったけれど、岩手は実感としても実際にも遠過ぎて、僕の選択肢にはまるでなかった。僕は思い出す、白い鉄橋を渡るとき、川の遠くに岩手山が大きく聳え立って、ときには山の端が白く雲で淡くなっている。川沿いに緑の柳の枝葉は揺れて、あまりに女々しいから泣きはしなかったが、そこに広がる空が僕のほんとうの空であるのかもしれなかった。

 新宿駅に来るたびに、僕はいたたまれない気持ちに襲われる。僕はスーツ姿の中年の男とぶつかった。僕が振り返ってすみません、と言うと、男は何事もなかったかのように歩き去っていった。僕は実のところ、新宿を手に入れようとしていたこともあった。新宿を愛そうとした。愛し得ないものまで愛そうとした。僕は少しだけ新宿が好きになった。というのも、新宿は誰も愛そうとはしないからだった。彼女と新宿を訪れるときだけ、僕は支配者として振る舞えるのだった。しかし今は彼女は姿を消していたので、僕は早足でバスタ新宿へと向かった。

 僕はどこへだって行くことができた。僕は来月のことなど考えなくても良い身の上であったので、それでいくらかかろうと僕の関知するところではなかった。山の中へ行こう、と僕は思った。誰もいない山の中に行って、朽ちかけた吊り橋を渡ったら、僕はダイヤモンドの空を見つけられるような気がしたんだ。朽ちた吊り橋を渡ると死者の国があって、僕の名前を呼んで僕の身体を抱き止めてくれるに違いなかった。光に磨かれた止水が吊り橋のはるか下に透き通っていて、僕の苦しい呼吸を引き取ってくれるのに違いなかった。

 僕は興奮を感じながら、富士山への切符を買うことに決めた。別にどこだって構わなかった。どこを選んだって朽ちた吊り橋と澄んだ止水が僕を待っているはずだった。窓口に向かうと、僕は料金を確認して、受付の男性に紙幣を差し出した。初老の男性の顔にはシミが一面に広がっていて、僕は年輪のようだと思った。

 男性は怪訝そうな顔をした。

「片道でいいんですか?」

 僕は料金表に書かれた料金をそのまま差し出しただけだったが、俄に呼吸が苦しくなるのを感じた。首に縄をかけた時の感覚が再現したようだった。体重が首にかかり、血の気が引いていく感覚がする。脳の血管がぷちぷちと弾けていき、視界が砂嵐のようになる。僕は机に体重を凭せかけて、係の男性に片道切符をください、と言った。男性は機械的に切符を僕に手渡した。

 僕は頭に血が昇っていくのを感じながら、焦って待合を見渡した。トイレの案内を見つけると、おぼつかない足取りでトイレの個室に駆け込んだ。便器の蓋の上に座り、荷物を漁っても薬が見つからなかった。急に静まり返ったような、いや、むしろ乱流のように狂い出した脳内回路は行き着く先をまるで見失っていた。先ほどの男性の言葉が何度もリフレインした。片道でいいんですか? 片道でいいんですか? 僕は聞き返したかった、どうしたらいいと思いますか? 僕はもうとうに決心を固めて出てきたはずなのに、探検家のような心持ちで切符を求めに来たはずなのに、どうしてこのように心が乱れるのでしょうか? 男性はおずおずと答えて言った、あなたは彼女のことを忘れているのではありませんか?

 そうだった、どうしてこんなときに彼女のことを微塵も思いださなかったのか不思議でしょうがなかったが、僕は彼女のことを考えなければならないはずだった。スマートフォンのロック画面を開くと、そこには去年彼女と行ったネモフィラ畑の写真が光っていた。僕は泣きながらLINEを開き、彼女にメッセージを書いた。僕は今死のうとしている。富士の樹海への片道切符を買って、バスターミナルでバスを待っている。でもどうしてか心に決めたはずの気持ちが揺らいで、惨めにトイレの個室で泣いているよ。(助けて、僕をこのどん底から掬い出して。)

 僕が彼女に送ったのは、「今どこにいる?」という一文だった。十時ちょうどに既読が付いて、家にいるよー、といういつもの彼女の返答が返ってきた。ついで、指でハートを作った自撮り画像が送られてきた。私は可愛く、愛されているという自信に満ちていて、僕に心を開いた表情をしていた。そういうところを僕は心から愛していた。しかしそれよりも、彼女の瞳が強く心を貫くのだった。朗らかに上目遣いで笑いながら、彼女の瞳は哀しく澄んでいた。疲労や、諦観から遠く離れたところで、澄んで、しかし哀しく濡れて光っていた。僕は以前、彼女の澄んだ虹彩を宝石で形容したことを思い出した。雪の女王という童話があってね、天から降り注いだガラスの破片が目に入ってしまった少年は、それまでの優しい心を失ってしまうんだ。

 そうしたら、彼女も澄んだ虹彩に宝石を宿す代わりに、何かを失ってしまったと言うのだろうか。そうだ、と僕は思った。彼女の欠けた心ゆえに僕などを求め、その代わりに彼女の虹彩はいよいよ澄んでいくのだった。

 僕は涙を拭ってトイレの個室から出た。待合でしばらく彼女とのやり取りを続けていると、彼女が新宿まで来ることになった。僕は長らく曜日の感覚を欠いていたが、今日は日曜日だった。僕は南口まで移動すると、花屋の前で彼女を待った。真っ赤なケイトウが店前で一際目を引いて、周囲の花を頼りなくさせていた。僕はすっかり気分も落ち着いて、僕が彼女の誕生花を決められるなら、ケイトウにしようと考えていた。しかし、彼女の誕生日は夏だった。その時は向日葵の花を贈ったのだった。

 日本国旗を手に持った右翼が朝から南口前で演説しているのを聞くともなく聞いている時、彼女が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。彼女は最近お気に入りの白の帽子をかぶっていたが、心に何か引っかかったものがあるような表情をしているようにも見えた。彼女は僕の元まで来ると、おはようでもなくお待たせでもなく、大丈夫?、と軽く尋ねた。僕は少し動揺しながら、もう大丈夫と答えていた。もうと付けたのは動揺していたせいだったが、彼女は何も詮索しようとしなかった。

 僕たちは学生だったから、いつも気ままにお金を使えるというわけではなかった。僕は彼女に花を一輪贈るのが好きだったが、いつでも贈れるわけでもなかった。したがって、僕たちは新宿に集まると、どこへ行くともなく街を歩いたり、あるいは新宿御苑に行ったりすることが多かった。彼女は、DEAN & DELUCAで朝食を買うと、新宿御苑で食べようと言った。僕は彼女の手を取った。

 日曜日の新宿御苑は大変な混雑だった。ベビーカーを押した家族連れや、僕らと同じようなカップルが券売機の前に列を作っていた。僕はその列を見て少しうんざりして、少しだけ山の中の風景を想像したりした。ほんとうの空、ほんとうの救済。しかしそれも少しだけだった。ぼんやりとしていた僕は彼女に手を引かれて我に返った。十一月の日差しは暖かかったが、彼女の手はひんやりとしていた。

 新宿御苑のぐるりを巡っていくと、奥では銀杏が見事に黄色く染まっていた。地面には一面黄色い絨毯が引かれ、陽だまりのような様子を呈していた。僕らはきれいだね、と言いながら並木道を進んでいった。途中で彼女が、右手を伸ばして僕らと銀杏をカメラフレームに収めた。僕も写真を撮ろうと思い、彼女を並木道の真ん中に立たせて何枚か写真を撮った。かわいく撮れた?、と言って彼女は写真を確認すると、これはだめ、と言いながら一枚の写真を消した。

 彼女は二時から予定があるらしかった。僕らは入り口まで戻ってそこで解散した。僕は再びどうすれば良いのかわからなくなったが、久しぶりに人ごみに圧倒されてしまったせいか家に帰りたくなった。電車に乗り込むと、僕は深い疲労を感じながらも、習慣的にスマートフォンを取り出した。車窓からは東京の薄汚れた街並みと、きれいな秋晴れだが、やはり狭い空が見えた。僕は彼女に消された写真をこっそり復元することを思いついて、カメラロールを開いた。

 まったく、どうして削除したのかわからないほど、その写真はうまく撮れていた。銀杏並木と、彼女の全身がバランスよくフレームに収められている。僕は何気なく彼女の顔を拡大した。

 僕は電車の中で、思わずあっと声を上げそうになった。そこに写った彼女の顔は——正確には瞳は、いつにないほど哀しく澄んで、うつくしかった。おそらく彼女は、僕がなぜ数週間ぶりに外出したのか、ある程度まで感じとっていたのではないかと思う。それゆえか、彼女の虹彩は冬の湖のように澄んで、静かだった。僕は、ダイヤモンドだ、と思った。ただし、何カラットとか言う加工されたダイヤモンドでなく、山から取り出されたばかりの、ごつごつとした岩からのぞく、自然のままのダイヤモンドだ。幾億年の哀しみをそのまま湛えた、いちばんうつくしいダイヤモンドの姿だった。僕は胸がいっぱいになって、呼吸が深くなっていくのを感じた。

 大学と僕の家の最寄りで電車を降りると、再び僕の脳裏には憂鬱なことが次から次へと渦巻いた。大学へも行けずに毎日ベッドの中で呻吟していること。愛する人への裏切り。滞納している水道料金。地下鉄の出口から出ると、秋晴れの空が相変わらず狭かった。やはり東京にほんとうの空はない。でも、と僕は思った、ダイヤモンドの空よりもうつくしいものを、僕はこころから愛しているのだ。

 駅前のファミリーマートを通り過ぎた時、ひとまずは用済みになった富士への切符を、僕はゴミ箱に捨ててしまった。

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