文学的とは何か
「文学的な」歌詞を書くアーティストが昨今評価されている。例えば、ヨルシカであったり、YOASOBIであったり。しかし、私たちは何を以てある作品を、あるいは表現を文学的だと評するのだろうか。
私は率直に言って、現在の「文学的」の使われ方には違和感を感じずにはいられない。一つには、最近流行りの「文学的」表現に全く乗れない——文学を感じないからではあるのだが、私の個人的な好みを抜きにしてもう少し筋の通った理由を考え出すとするならば、そこに文学の「強度」が足りないと感じてしまうことが多いからではないかと考える。
個人的な好みから先に述べると、私は「文学的」な歌詞とされるものに文学を感じないことが多い。「文学的」歌詞の筆頭と呼んでも差し支えないであろうヨルシカの人気曲に「ただ君に晴れ」がある。まずはこの歌詞をこきおろすところから始めたい。
夜に浮かんでいた
海月のような月が爆ぜた
「ただ君に晴れ」はこの何の変哲もないフレーズから始まる。文学的とは言えないかもしれないが悪くないフレーズだ。ただ引っかかるのが、「月」が「爆ぜた」というところだ。月は爆ぜない。普通結びつかない名詞と動詞を結びつけているところが印象に残る。
同様のテクニックは他の箇所でも使用されている。
「夏の匂いが頬を撫でる」
「君のポケットに夜が咲く」
という箇所だ。
ここまで来ると、大体作詞者の手の内が見えてくる。文学の匂いは、この結びつかない単語を結びつけるところから生じているのがわかる。もちろんそれだけとは言わないが、「ただ君に晴れ」の文学性がこのレトリックに依存する部分は大きいだろう。
私は正直に言うと、この手のレトリックには辟易しがちな方だ。もっと巧みにやってくれれば感動のしようもあろうが、夜が咲くくらいでは飛躍がなさすぎる。このレトリックの肝は飛躍の加減にあるというのに。
俳句の季語に「山笑う」というものがある。私はこの季語を知った時には感動を覚えた。山が笑うだなんてとても常人の発想力では辿り着けない境地だ。そして、山が笑うという表現は、春の山で一斉に芽吹く植物の様子を素晴らしく的確に表している。このくらいやらないとこのレトリックで人を感動させることは難しい。
そして、こちらが本筋なのだが、私がこの歌詞を見て思うのは、「あまりに弱すぎる」ということである。弱すぎるというのはなよなよしているとか、心が弱いとかいう意味で言っているのではない。文学的強度の問題である。
文学的強度とは、その表現が惹起する感情の過多のことである。「ただ君に晴れ」では、あの夏の君の思い出を噛み締めることしかできない切なさが描かれている。しかし、それがどうにも美しすぎていけない。美しいというのは決して褒めているのではない。ぼんやりとしていて焦点が合わず、ただ「君」と「夏」という鉄板のエモが散りばめられているだけだと言いたいのだ。「エモい」については以前書いたことがあるのでそちらも読んでいただきたい。
「君」と「夏」に寄りかかった結果、感情のフレームが曖昧になってしまって、読むとただ美しい「印象」ばかりが残る。しかし、印象は決して感情ではない。それゆえ、「ただ君に晴れ」はあまりにも弱いのである。
ここで比較として、「君」と「夏」が登場する詩を一つ思い出したい。シェイクスピアのソネット第18番である。詩と歌詞はまた別のものだが、リズムに従って書かれるソネットは歌詞に通ずるものがあるのではないだろうか。
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
荒々しい風は五月のいじらしい蕾をいじめるし、
なりよりも夏はあまりにあっけなく去っていく。
時に天なる瞳はあまりに暑く輝き、
かと思うとその黄金の顔はしばしば曇る。
どんなに美しいものもいつかその美をはぎ取られるのが宿命、
偶然によるか、自然の摂理によるかの違いはあっても。
でも、君の永遠の夏を色あせたりはさせない、
もちろん君の美しさはいつまでも君のものだ、
まして死神に君がその影の中でさまよっているなんて自慢話をさせてたまるか、
永遠の詩の中で君は時そのものへと熟しているのだから。
ひとが息をし、目がものを見るかぎり、
この詩は生き、君にいのちを与えつづける。
「ただ君に晴れ」と比べると、その文学的強度の差は歴然としている。
君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
このように書くことがいかに難しいか、想像がつくだろうか。下手なレトリックを捏ね回すよりも、ただ一言——それも適正な位置で——「美しい」と書くことのほうがよほど難しい。シンプルに書くというのは困難なことなのだ。
このソネットでは、明らかに「君」と「夏」という曖昧模糊としたイメージに寄りかかってそれで良しとはしていない。「あの」夏とまで限定した割に夏のイメージを描ききれていない「ただ君に晴れ」と異なって、このソネットではさまざまな角度から夏を、そして君を描きだしている。
その時読み手の心には「印象」ではなく感情が惹起される。その感情は人それぞれだろうが、私は書き手の「君」への深い愛情に胸を打たれた。また、表現の美しさ——今度は真の美しさ——に胸が震えた。
思うに、昨今用いられる「文学的な」という表現は、単に綺麗で美しいものという意味しか持っていないのではないか。しかし、文学を読んでいけば自ずと、陋劣なもの、下卑たもの、禍々しいものにも文学が宿っていることがわかる。
私は最近ウラジーミル・ソローキン『青い脂』を読んだ。そこにあったのは、猥雑で理解困難な文章とナンセンスなセックスだった。しかし私は、それを文学として受け取った。それは、作品全体を通じて極めて高い文学的強度が保たれていたからだ。陋劣なものほど感情を動かすのは当然でもあるかもしれない。
私は、外見ばかりが良い似非文学に騙されてはいけないと声を大にして言いたい。三度言いたい。そして、単に美しいもの、綺麗なものよりもずっと奥の深い文学というものの価値が、もっと認められ、味わわれるようになれば良いと思う。