海について
「もし私が死んだら、遺骨は小松の日本海に撒いてね」
母親は、昔から事ある毎にこの遺言を私に伝える。
生を全うした自身の欠片を墳墓という形で格納せず、自ら自然に還ろうとする欲求が本能的に働いているのだろう。なんとも私の母親らしい。
かくいう私も、海洋散骨を望んでいる。
それはきっと、全ての起源は海から、私は水から生まれてきたと考えているからだ。
いや勿論、現実は母親のへその緒を辿って産声を上げているのだけれども、形として誕生するよりも、もっと前の話。魂や生命の類が海から然るべき容れ物まで辿り着き、リンクする感覚がある。
身体として産まれた場所も、日本海の海沿いだったせいか。何かあるとき、何も無いとき、私は衝動的に海へ足を運ぶ。
大阪には海があってないようなものだから、日本各地津々浦々、海のために旅行をする。
兵庫は明石-淡路島
和歌山は加太ビーチ
敦賀の美浜
故郷である石川の小舞子海岸
雲仙から見た有明海
デートで行った江ノ島
福岡は街と海がセットで楽しめたり
北海道の函館湾で夜明けを過ごし
静岡の清水-浜松まで海沿いサイクリング(過酷!)
渡嘉敷で山を登り降り(過酷!)見たブルーオーシャン
瀬戸内なんてその為に何十回行ったか分からない
泳いだり水着を着て入るほうの海は好きではなく、マリンスポーツも決して好まない。最近は釣りもしない。
目的はなく、ただただ海を眺めるだけで乱雑な頭の中が整い、心が楽になるのだ。
気が付くと日が沈んでいたり明けていたりもするが、私にはそんな時間が定期的に必要なのだろう。
今もまさに、JR特急くろしおから海を見ている。
橙の色がピークを迎える、有田のみかん木。
南紀白浜で停車中、
11月の隙間風に対するジャケットの頼りなさ。
視界には常に太平洋が一望できる。
もう少しだけ、願わくばずっとこの中で揺れていたい。
BGM:海について/cinema staff