喫茶『彼』⑧【連続短編小説】
※前回の「喫茶『彼』⑦」はこちらから
思えば私から明確に彼を求めたのは初めてだったかもしれない。
その実、私の頭の中ではいつだって彼を求めて止まなかったけれど、それは表立っていなかった。だから、もしかしたら私がいかに彼を想っているか、愛しているのかなど、そのどれもまだ伝わっていないかもしれない。それもそうか、まだ片手で数えるほどしか会っていない。まして、彼にとって私は『彼が温もりを与えた数ある困っている人』の内のたった一人なのだ。私はなんと小さい存在だろう。
そんなことを思っていると、口づけている時間がどんどんと延びていく。さっき口にしたペットボトルの生ぬるい水が唇を湿らせて、気づけばそれが熱を持ちはじめたようだ。触れているそこが熱い。
それに怯えて唇を離した。けれど、勢い離れた私の体を彼が再び抱き寄せ、今度は彼から口づけた。こんなに彼を想っているのに、触れているここには、好きも嫌いも、愛しているも憎しみもそんなものの介在はなく、ただ触れているだけである。それがとてつもなく怖くて悲しい。
彼がそっと唇を離した。
「僕もまた、弱い」
ばつが悪いようにはにかみ、彼は私の頭をポンと軽く叩いた。
私は、ハッとする。
そこから急に、得体の知れない何かが私の胸の中に湧き出た。コポコポと湧き水のようであるが、それほどきれいな水ではない。薄く濁った何かが徐々に勢いを増す。段々とその濁りが強くなり、やがて真っ黒であることに気付いた。正体はきっと悲しみと怒りと疑問と絶望と、そして愛が少々。
そして彼の言うとおりである。
彼もまた、弱い。
私もまた、弱いのだった。
私はそれに耐えられなかった。きっと誰もが弱く、この程度の悩みやなんかは万人がもっていることだろうに、それでも私は耐えられなかったのだ。だから、ここからすくい上げてくれるナニかや、縋れるソレ、逃がしてくれるミチとそのスベを教えてくれるナニモノかを欲したのだ。
そうして彼は目の前に現れた。きれいな顔で、温かな腕と胸で私を抱きしめてもくれた。薄暗いけれど香ばしい匂いが漂う店内で、私は一時の逃避を叶えた。二度も抱きしめられれば、私は母親に抱かれる赤子のように安心して眠りについた。私の弱さはほんの少しだけ影を潜める。滑り落ちる砂の谷で、なんとか砂の奥に足をかけて落ちることを止めた。
けれど彼もまた弱かった。
引っかけた足をそのままにして、徐々に今度は砂が崩れていく。私の足は当たり前のように引っかかりを失い、砂に飲まれていく。
「ねえ、君なら分かるでしょう。僕と君はきっと同志だよ。何のために生きるのか、どうしたいのか、今ここにいることに意味はあるのか、ないのか。いくら考えても分からないことに頭を悩ませるんだ、僕たちは。だから考える前に選択する事が必要だった。今日を生きるか、生きないか、とね」
彼の顔が段々とゆがんでいく。熱く湿った唇はもう乾いてしまった。指でなぞると、そこに熱だけが残っている。私はぞくりと背中に汗をかいていた。
「僕と一緒に遠くにいこう。考えなくてもいいことや、悩んでも仕方のないことを二人で考えよう。そうしてそれを僕たちの生きる意味にしよう」
弱い彼が弱い私を助け、今度は弱い私に彼が助けを乞う。その次はまた彼が私を、その次には私が彼を。きっとそれは永遠だ。永遠にもがいて逃れられない。まるで蟻地獄だ。
彼の顔を見ると、うっすらと涙さえ浮かべている。その涙の粒がポっとテーブルに落ちた。目を凝らしてみると涙の粒に黒い影があり、その奥にはウスバカゲロウがいることに気付いた。
ああ、そう言えばと私は思い出す。
ウスバカゲロウの幼虫はアリジゴク。
私はすでに捕らえられているのだ。
続 喫茶『彼』LAST⑨【連続短編小説】- 5月26日 12時 更新