9月7日 クリーナーの日
(いつもより少し長めです※2400字程度)
目の前が真っ白でよく見えない。
雨が降っているのか、それとも私の気持ちがそう感じているのか。
私はぼーっとした頭のままで、目の前の喫茶店の扉を開ける。
その扉が重くて、私は腕に全身の力を乗せて扉を押した。すると瞬間、ふわっと軽くなったので驚く。
「いらっしゃいませ」
喫茶『マーブル』
近所にあるけれど、一度も行ったことがない店である。それにも関わらず、すがりつくように扉に手を掛けたのは、どこか知らないところで息を吐きたかったのかもしれない。
「いいお天気ですね」
店主らしいおじいさんが言う。案内されるまま席に座る。
「ホットのカフェオレをください」
「はい、少々お待ちくださいね」
おしぼりと水をテーブルに置き、店主は奥に下がって行った。
そうか、外は晴れていたのか。私は暖かなおしぼりで手を拭きながら思う。
なぜ雨だと思ったのだろう。音、だろうか。走る車のタイヤと地面の擦れる音や風の音、車の修理場から聞こえる作業の音、自転車の通り過ぎる音と乗る人の声。私の周囲は音が降っていた。その音はやがて私の中できれいに整頓され、まるで雨のように一定の音を聞かせていたのだ。
加えて、私の荒い呼吸とマスクのせいで、メガネはどんどん曇っていき、私には見えない目の前と雨のような音の世界が広がった。
「どうぞ、ホットのカフェオレです」
トン、と目の前に置かれ、私は会釈する。ふわん、とミルクとコーヒーの香りがした。両手でカップを持ち、ふうっと息を吐く。ふわっと白い湯気が立ち、私のメガネをさらに曇らせる。
私はメガネを外す。
「ああ、おメガネが汚れてしまっていますね、拭きますので少々お待ちください」
店主はそう言うと、私のメガネをさっとお盆の上に載せる。素早い動作で断ることもできなかった。
「お目もとが寂しいようであればそちらのアンティークメガネをお掛けになってお待ちください」
顔を上げて目の前を見るとずらりとメガネが並んでいた。店主の趣味なのか、壮観である。私は席を立ち、言われるまま一つのメガネを手に取った。そばにある使い捨てのクロスで吹き上げて耳に掛ける。
目の前に虹が広がった。
驚いてメガネを外すと、そこは変わらずに喫茶店の中。見渡すが店主はいない。私はもう一度メガネを掛ける。
虹がきらめいて見えた。
ああ、これは彼と初めてデートをしたときに見た虹だ。
もう5年も前のこと。緊張して下ばかり向く私に、彼は虹が出ていると言った。けれどそれは嘘で、見上げた空には虹が無かった。うそつき!なんてはしゃいで言うと、彼は本当だと言った。
彼の持つメガネと地面の水滴と、太陽の光で地面に小さな虹が現れた。
私は、幸せだった。
今日から一週間後、彼は海外に行く。もう二ヶ月も前に海外転勤を打診されていたらしいのに、私はそれを知らされていなかった。そしてそれを今さっき聞いたのだった。
別れるつもりで私に言わなかったのかと思うと、悲しくて涙が出た。スマホと、置きっぱなしのメガネを取って私は家を出たのである。エレベーターの中、着信があるのを見て、スマホの電源を切った。着信の前にはメッセージも入っていたように思う。そのどれも、目を開けて見るのが怖かったのだ。
でも、今、私はこのメガネを掛けて目を開けている。
虹がとても美しくて、私はやっぱり涙する。
「お待たせしました。メガネ、お返ししますね」
ポン、と肩に手が置かれ、目の前は一瞬にして今いる喫茶店の風景に変わる。
「あ、あれ?」
「いかがしましたか、何か綺麗なものでもご覧になりましたか」
「いえ、あの、虹が」
そこまで言い掛けて、私は口を噤んだ。メガネを掛けたら虹が見えたって、そんなこと言えない。
「虹が、見えましたか」
店主はにっこりと笑って言った。まるですべてを知って分かっているようなその笑みに私は流された。
「虹が見えたんです。とても綺麗で大きな虹。私の思い出にある虹とは似ても似つかないのに、同じだと思える虹が、メガネの奥にあったんです」
私が懸命に説明をしてみせると、店主はうんうんと頷いて笑う。
「じゃあ、もう晴れているんじゃないですか」
「え」
「虹は、雨の降る最中には出ないでしょう。雨が上がったその時に出る。だから、あなたの雨は上がったのでしょう」
私の雨が上がったのか。
「メガネはもう、曇ってはいません。掛けてみてください」
私は拭いてくれたという自分のメガネを手に取り、そのまま掛ける。
虹はない。
けれど確かに、曇ってはないし視界はクリアである。
「よく見えるでしょう。あなたはもうちゃんとよく、すべてを見ることが出来るのだから、心配しないで見たいものが見られると思いますよ」
優しく微笑まれ、私もつられて笑う。
どこか、体の力がふっと抜けた。
私はスマホの電源をつけ、着信とメッセージを確認する。
彼からの連絡は何件もきていた。メッセージを読んでいくと、彼の気持ちがよく分かる。
言い出せなかったこと、別れなくてはならないのではないかと不安に思っていること、けれど別れたくないのだということ、そして、私を好きでいてくれること。
「ごちそうさまでした」
私は残っていたカフェオレを飲み干してカップを置いた。
「ありがとうございます。あ、もし良かったらこちらお持ちください。さっきのメガネを拭いた残りですが」
店主は小さなメガネクリーナーとクロスを手渡した。
「曇ったらね、拭けばいいんですよ」
そう言って、会計を済ませた。
「それでも、くもりが取れないときは、またこの店にお越しください。拭いて差し上げます。その間、今日のようにお好きなメガネを掛けていただいてかまいません」
「ありがとうございます」
私はそう言って店の扉を開けた。
「どこか別の世界を見たくなったらいつでもどうぞ」
店主に会釈し、外に出た私は顔を上げた。
雨もなければ虹もない。
けれど、虹は私の心にずっとあることを、今の私は知っている。
曇っているなら、拭けばいいのだ。
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【今日の記念日】
9月7日 クリーナーの日
メガネクリーナー、メガネクロスなどの製造・販売を手がけ、メガネケア用品のパイオニアとして知られる株式会社パールが「メガネをきれいにして美しい視生活を」と制定。英文では、LENS CLEANING DAY。日付は9と7で「クリーナー」と読む語呂合わせから。
記念日の出典
一般社団法人 日本記念日協会(にほんきねんびきょうかい)
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