0301_八方四方
何だか似ているような気になり、まるで私がそこで、もしくは主人公がここに生きているように思えた。
通勤電車の中は蒸し蒸しと鈍い暑さが充満していた。季節は冬から春に変わるのかもしれない。立っていれば四方には知らない人の衣服が触れている。
四方、では無かった。六方である。
混雑の中でも車内ではなんとなくの『列』が出来ることが多いが、今日はそれさえなく、ぎゅうっと詰め込まれている。で、私の六方も人で埋まる。
その中で、腕を折りたたみながらスマホを開き、私は本を読んでいた。
大柄な人に抱きしめられる小柄な人が主人公の恋愛小説だった。その全ては愛の行為なのだが、どの描写もなんとも心地良く、そこに爽やかな愛を感じるのだった。こんな風に、私も抱きしめられたいと思う。ただ体の密着なだけではなく、触れる箇所の一つ一つ、その細かな皺の細部まで、愛しくて愛しくてたまらなくなるような、その気持ちが漏れ出てしまうほどのその愛情を、私も全身で受けてみたいと、一文を読んでは目を閉じる。閉じるたび、まぶたの裏で想像する。
電車は進み、一駅、二駅と目的地まで進む。人が出ては入り、ごちゃごちゃと知らない人たちが入り交じる。私の六方は七方となり、八方ともなった。スマホにはすでに触れることはできず、身動きが取れないでいる。
余計に、さっきまで読んでいた一文の光景が、私のまぶたの内側や頭の中に広がり体の奥からゾクリとする。私に触れるその全てに妙に敏感となり、隙間なく触れる知らない人たちの衣服で私は纏われていることに気づく。そこに圧がじわじわと足されていくので、錯覚してしまう。
もしかして、私は主人公と同じように、大きな何かに抱きしめられているのかもしれない。
それはもちろん大柄な人ではないし、そもそも満員電車の中で知らぬ人を抱きしめてしまうような犯罪的なことをする人はいないので、そうではない。そうではなくて、こう自分のそこに立たずとも支えられて包まれ、私が当たり前のようにそこに『ある』ような感覚。まるで全身を抱きしめられているように思えて私はなんと、幸福を感じているのだった。
このまま、目的地になど着かなければいいのに。そう思う頃、電車が止まり、ドアが開き、社内の人が流れるように蠢き、私の八方は四方になった。
目を閉じれば何にだってなれるのだなぁとぼんやり思い、私は最後に電車を降りた。
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