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0704_背中を押して
「なんか、落ちるのよね」
自分で言って、不思議そうな顔をして花沢が言った。落ちるって、何が?と私が聞く。
「要はメンタルなんだけど。なにがあったとかではなく、何となく、あぁ今落ちていってるなぁって分かるの」
「気持ちが暗くなって沈む、みたいなもの?」
「そうね、そんな感じ。満員電車の中にいるのにひとりぼっちみたいな。別にひとりぼっちなのはいいんだけれど」
花沢の背中をマッサージしながら、私はふんふんと聞いている。寂しいと、23時に急に呼び出した割にはひとりぼっちは苦でないらしい。
「それはどのくらい続くの」
「わからない。短いとその日だけだったり、長いと多分何年も。気付いたらどこか陸に浮上してたりして、それでやっと終わったんだなって気付く」
じゃあ、落ちた先は海、もしくは川など水の中なんだね、と思ったけれど言わないでおく。花沢の背中は凝っているのか、硬くて重い。持ったわけでも背負ったわけでもないが親指で指圧しながらそう思う。色んなことを背負って、おろして、また背負ってきた。そんな背中。
「疲れてるんだよ」
「そうでもないわ」
「結構凝ってるよ」
「それはきっと、あなたの親指が凝っているのね」
私は驚いた。
もう20年ほど整体を生業にしているが、これまでにそんなことを言われたことは一度だってない。思わず自分の親指を見る。指が離れたことに気づいたのか、花沢がくるりと顔を向けた。
「そんなもの、見てわかるわけないじゃない。なるべくして、重ねてきてでき上がったものなんだから、他の何とも比べられない。だから見ても分からないわよ」
そんなものか。確かにまじまじと自分の右手親指を見ても特別変わったところがあるとは思えない。そして、わからない。
「そんなものかね」
「そんなものよ」
妙に自分の親指が誇らしくなってきた。試しに、と左の親指で花沢の背中を指圧する。
変わらずそれは硬くて重い。
「自分のことはね、誰にも分からないのよ。分からないけど、それまでを重ねて出来たあなたであることは変わらないのだから、あなたの親指が硬くて重いのは当たり前よ」
自信を持ちなさい、などとも言った。
花沢はきっと、今落ちているところだろうか。それとも浮上しているところだろうか。どちらか、私には分からないけれど、おかげで私は、息継ぎができた。
硬くて重い、花沢の背中よ。
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★著者:あにぃ