0622_僕にはないなぁ
何回も読む本がある。
人生の指針や、元気になる言葉があるわけではない。でも、私はその短い小説が好きで、日に何度も読んでは、胸の中でほぅっと何かが落ち着くのを感じている。
こんなことを彼に話したら、何となくわかるよと言われた。
私は嬉しくなって、うっかり心がほどけてしまったのだった。
私にとって、彼は特別になった。その本と同じように。
「生きるのに、私には毎日読まなければならないの」
「うんうん」
「あなたにもそういう本はある?」
「そうだなぁ、僕はないなぁ。毎日読まなくては生きていけないという君がいないと、僕は生きていけないのかもしれないね」
そう言って、フフフと笑うのだった。そんな彼がいることが私は幸せなのだろうと思えた。そう思えることが幸せだった。
「あなたには何か夢中になるものはある?」
「そうだなぁ、僕はないなぁ」
「学生の頃に続けていたスポーツとか趣味は」
「そうだなぁ、僕はないなぁ」
私が勝手に思っていた彼よりも少し淡白だったのかもしれない。彼には彼の意見がほとんどなかったのだ。次第に、私は彼のことが分からなくなっていく。
二人でいるときはとても優しい。約束の少し前に着いてはレストランの席を取っていてくれたり、夜も遅くなれば家まで送ってくれるし、私の体調を気遣い、生理前のメンタル不調の時にはそっとしておいてくれる。
優しい。
でも、彼の想いが見当たらないのだった。一向に。
いろんな色のそれを持っているのに、好きな色だけがぽかんと見つからないような、真っ白な画用紙に小さな黒い点が端の目立たないところに一点だけあるような。そしてそれらを見つけてしまうその時の、妙な寂しさと悔しさ、込み上げる切なさが、私の中の彼への気持ちに影を落とし始めた。
「ねぇ、愛しているのよ」
ベッドの中、私は彼の首筋にキスをして告げた。そうだなぁ、と彼が爽やかに笑い、私は少しだけ顔に力が入っているのを感じる。彼は、静かに続けた。
「僕も、愛しているよ」
私は嬉しくなり、またうっかり、彼への愛を続けた。
「あなただけが、私の特別なの」
何かの不安からか、私は彼の肩や胸に顔を押し付けて、彼の言葉を待った。
「そうだなぁ、僕はないなぁ」
瞬間、何かの溜飲が下がり、私は静かに彼から離れた。彼は驚くこともしなかった。
「さようなら」
私がいうと、彼はやっぱりいつものように微笑んだ。
「さようなら」
私はこれから帰って、体に残っている彼の触れた温かい部分をなぞりながら本を読む。
人生の指針も、元気になる言葉も特にはないのだけれど、私はそうして生きていく。
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★著者:あにぃ