それはかつてあった?
バルトは「写真の指向対象」はある映像や記号によって指し示されるものであり、この特徴は他のメディウムから明確に区別されるとした。なぜならば、対象が写真になるためには必ず現実に存在しなければいけないとバルトは考えたからだ。
そして、写真に写ったものが「現実のものであり過去のものであるという二重の措定」が存在するからこそ、それはかつてあったということを決して否定できないとバルトは主張した。この写真の「指向作用」こそが写真のノエマ、即ち本質であるとした。
さらに、バルトは自身が写真からある種の真実と現実を感じ取ったことによって、実際に写真に写っている対象が存在しているのかを確かめることなしに、「それはかつてあった」という実感をもたらす写真の力に彼自身を自覚的にさせた。
この「それはかつてあった」という写真に対するある種の現実性の付与は未だにわれわれの間で健在な態度だろう。そうでなければデマとして写真が広められ人々に誤情報を植え付けるということ自体が成立しなくなる。しかし、この概念では現在の社会における写真を取り巻く変化の諸状況を掬い上げることは難しいだろう。それは特に写真の生成の段階で顕著だ、例えば生成AIは現実の対象ではなく過去の写真やイメージの膨大な蓄積から逆流的に「現実」としての写真を生み出す。このことは、写真が相変わらす「現実」を指し示していると私たちが考えてしまうということがバルトの時代から変わっていないなか、写真の生み出され方そのものは現実に基づかなければいけないという制約を逃れつつあることを示す。
そして、このような写真の生み出され方は伝統的な指標としての写真の機能とは別の「観念としての写真」と言うべき様相を呈している。つまり、これは現実に指示対象が存在すると言うのではなく、例えば林檎という言葉を聞いて自分の過去の林檎に対する知識や経験を繋ぎ合わせた架空の林檎のイメージを頭に思い浮かべるように生成される、観念的な対象としての写真が現れ得るということだ。
これは写真が本来の文脈から外され、誤った情報を示すといったこと以上に、現実そのものに一切接触をしなくても(現実から遊離していても)見る人にとっての現実を形成できるという全く異なった作用を写真にもたらしている。その作用が社会に及ぼす影響は予測できないが、もはや写真が特定の現実を指示しているという認識は幻想になりつつある。
参考文献: