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幸せな朝(脳腫瘍 16)

 3月12日(土)、朝6時半に起きて顔を洗いに行き、ベッドに座って8階の自販機で買ってきた小岩井コーヒーを飲む。
 ベッドの柵にふとんを掛けて背もたれにし、足を投げ出して目の前に広がる朝の風景を眺める。
 眺めていても何の変化もないビル群。空の色だけが毎日わずかに変化する。

 左手の造幣局のガラス屋根からは蒸気が上がっている。
 一見温室のようなガラスの屋根は、一部が開いていて四六時中白い蒸気が出ている。
 昼も夜も出続けている蒸気が何なのか、だれにもわからない。

 のんびりと景色を眺め、小岩井コーヒーを飲みながら、ピーター・バラカンのWeekend Sunshineを聴く。
 家に居ても好んで聴く番組だが、週末の早朝なので聞き逃すことも多い。
 入院中は早起きなので、毎週楽しみに聴いていた。

 この日は2曲目にクリームの “Politician” のカバーがかかった。
 おお~っ! 朝っぱらからこんなのを聴けて幸せ。
 聴いているうちに生きている実感が湧いてきて、退院したらバリバリ仕事をしようという気になった。

 ピーター・バラカンの番組はジャンルにこだわらず良い音楽がかかる。
 “Politician” のようなブルースロックもいいが、私の好きなアコースティックな古いブルースやジャズもよくかかる。
 この日はジャズが多くて面白かった。
 途中で朝食のお盆が運ばれてきたが、イヤホーンをしたまま聴きながら食べた。

 朝食のメニューは、トースト2枚、トマトオムレツ、アスパラサラダ、バナナ、牛乳、マーマレード、マーガリン。
 九段坂病院のときは朝食をご飯にしていたことは前にも書いたが、トーストとコーヒーの朝食が恋しくて、それが早く退院したい理由のひとつでもあった。

 病院はどこでもそうなのだろうか、ここでも毎朝冷たい牛乳と温かいお茶がついてくる。
 私は朝食にはコーヒーが飲みたいので、地下の売店で1回分ずつパックになったドリップ式のコーヒーを買ってきた。

 洗面所に備え付けの給湯器のお湯でいれるのだが、他にもこのコーヒーを作る人が多く、タイミングを逃すと給湯器のお湯が「沸騰中」になっている。
 朝食にちょうどいい時間にコーヒーをいれようとすると、たいてい出し抜かれている。

 朝食後はいつものように、8階の自販機に夕方飲むものと翌朝飲むものを買いに行った。
 朝起きてから朝食までが長いので、お腹が空くからたいてい小岩井コーヒーを飲んで待っている。

 3時のおやつ代わりにはヨーグルトドリンクかグレープフルーツジュースを飲む。
 プルーン果汁をミックスしたヨーグルトドリンクもさっぱりしておいしい。
 毎日何を飲もうかと迷うのも入院中のささやかな楽しみだ。

 部屋に戻って昨日の新聞の読み残した部分を読み、10時になるのを待って下の売店へ朝刊を買いに行く。
 他に何もすることがないので、1日中ラジオを聴くか、新聞を読んでいる。
 新聞は一面から読み始めて、経済欄から何からくまなく読む。

 入院前からライブドアとフジテレビのニッポン放送株をめぐる争いが話題になっていたが、九段坂病院退院後は新聞も読まずニュースもちゃんと見ないのでよくわからなかった。
 ここへ来て新聞を隅から隅まで読むようになって、やっとどういうことなのかわかった。
 毎日何が起こるかワクワクして新聞を広げる。下手なドラマより面白い。

 新聞を読むのに疲れたら、ベッドに横になってラジオを聴く。
 FMがつまらないときはAFN(米軍放送)を聴く。
 何十年ぶりかで聞いたのだが、女性のアナウンサーが喋っているので驚いた。

 学生時代は日がな1日米軍放送を聞いていたものだ。
 当時はFEN(Far East Network)と言ったが、今はAFN(American Forces Network)と名称が変わり、女性が活躍しているのも時代の違いを感じさせる。

 手術が無事に済んで、後遺症の心配もなく、回復するのを待つばかり。
 まだ他にも腫瘍があるからこれで終わりではないが、今のところは小休止。

 Mさんに言われたように、私は運が強いと思う。
 良い先生方に出会えて、難しい手術がことごとく成功した。
 とりわけ、中井先生に出会えたのが大きかった。

 私の脳腫瘍を発見してくださったのは中井先生で、もしあのとき念のためにと脳のMRIを撮ってくださらなかったら、脳腫瘍があるのはわからなかっただろう。
 原因不明の頭痛に苦しめられて、変だと思いながら、手遅れになるまで腫瘍は見つからなかったかもしれない。
 中井先生は命の恩人だ。


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