祖父も音楽好きだった
母がクラシック音楽を好きだったのは、祖父の影響もあったかもしれない。
祖父は愛媛県の八幡浜出身で、母が生まれた頃は東京の南品川で歯科医院を開業していた。
母によれば、ねえやが3人いたそうだ。
ねえやを3人も雇うほど大きなお屋敷に住んでいたとは思えないが、事情があってのことだろう。
私の手元にある写真には、祖父と祖母と母の2つ年上の兄と、その後ろに祖母の弟(左端)と祖父の弟(右端)、代診の先生(右から2人目)、おそらく書生さん(右から3人目)が写っている。
祖父の弟は、当時滝野川に住んでいた祖父の妹が引き取って一緒に暮らしていた。
代診の先生はおそらく通いだろうが、祖母の弟と書生さんは同居していたはずだ。
母が生まれてからは幼い子供が2人に、自分の弟と書生さんの面倒も見なくてはならないから、ねえやが3人いないと祖母1人では手が回らなかったのだろう。
母の話では、祖父は仕事が休みの日は祖母と連れ立ってオペラを見に行き、祖母にはヴァイオリンを習わせていたそうだ。
ねえやが3人もいるからそういうこともできたのだと思う。
祖母はヴァイオリンのことは何も話さなかったが、オペラを見に行って覚えた歌をときどき歌っていた。
この写真は「大正14年 秋」と書かれているので、母が生まれる前の年。
このとき12月生まれの祖父は31歳、3月生まれの祖母は25歳だった。
私が持っている祖父の写真はこれ1枚きりだが、母の写真アルバムには、白衣を着て診察室に座っている祖父の写真があった。
母が亡くなってからその写真を見て、眼鏡を外せば母の顔によく似ていると思った。
母が亡くなって遺品整理をしたとき、着物や服は取っておいたのに、何冊かあった写真アルバムは、今私の手元にはない。
取っておいた1冊は祖母のアルバムだと思って叔母にあげた。
私の知らない人たちが大勢写っていたが、叔母が見ればわかるだろうと思って。
他のアルバムも手元にないということは、私が引っ越しのときに処分してしまったのかもしれない。
写真は買えないのだから捨てなければ良かったのに、とにかく物が多くて、狭いマンションに持って行ききれないので本や服は大量処分したから。
母の遺品は私が取っておきたいものを選り分けて取った後、弟が残りを全部処分してくれた。
母は使わないものでも何でも取っておくので、片付けるのが大変だったと思う。
例えば、インスタントコーヒーの空き瓶に、刺身を買うとワサビを乗せたピンクの花の形をしたものが付いてくるが、それがぎっしり詰め込まれていた。
私は母が手元に置いていた小さながま口を開けて、そこに小銭ではなく祖父の写真が入っているのを見て胸が詰まった。
母は7歳のときに死に別れた父親のことを、いつも思い出していたのだろう。
辛いとき、苦しいとき、がま口を開けて祖父の写真を見つめ、心の中で祖父に話し掛けていたのだと思う。
祖父は将来長男には好きなことをさせて、母に婿養子をとって跡を継がせると言っていたそうだ。
母を嫁に出さず手元に置いておきたかったのだろう。
それなのに、父親が早くに亡くなってしまったので、母は私の父と結婚した。
父とは結婚したくなかったのに、祖母に無理やり結婚させられたと言っていた。
母によれば、祖父は食べ物に文句は言わなかったが、「さつまいもの味噌汁だけは食わせてくれるなよ」と言っていたそうだ。
「それなのに、ばぁばはさつまいもの味噌汁を作るのよ」
と母は言った。
私が祖母の家で暮らしていたとき、祖母は祖父の月命日にさつまいもの味噌汁を作ってお供えした。
「おじいちゃまはさつまいもの味噌汁が好きだったから」
そう言って、仏壇に手を合わせた。
何年も連れ添った妻が夫の好みを間違えるはずはないから、子供の母が勘違いしたのではないかと思う。
祖父と祖母は最後まで相思相愛だったらしい。
一度祖母に聞いてみたことがある。
「どうしておじいちゃまはにゃんこばぁばと結婚したのかしら?」
祖母はすまして、
「ばぁばのことが好きだったんでしょ」
と答えた。
「にゃんこばぁば」というのは、私が祖母につけたあだ名だった。
私が幼い頃、祖母の家には猫がいたので、猫のいるおばあちゃんということで「にゃんこばぁば」と呼んだそうだ。
当時、私には母方の祖母と、父方の祖母と、曽祖母(父の祖母)がいた。
3人もおばあちゃんがいるので、それぞれ呼び分ける必要があった。
「にゃんこばぁば」という呼び名は大人たちも使うようになり、母も叔母も私たち子供と話すときは「にゃんこばあば」と言っていた。
従妹たちは伯父の娘も叔母の娘たちも「おばあちゃま」と言っていたが、私は今でも「にゃんこばぁば」と言っている。
祖父のことは小さいときから「おじいちゃま」と呼ばされていたが、大人になって叔母と話すときには、「岩田啓(けい)さん」とフルネームで呼んでいた。
母も叔母も、祖母を「お母さん」と呼ぶくせに、祖父のことは「お父様」と呼んでいた。
叔母は母のことは「お姉さん」で、伯父のことは「お兄様」と呼んでいた。
父親と長男は敬って「様」を付けて呼ばせ、自分のことは普通に「お母さん」と呼ばせていたのは祖母の教育方針だったようだ。
祖母は子供たちを「さん」付けで呼んでいた。
長男はもちろん、母のことは匡子(まさこ)さん、叔母のことは維子(つぎこ)さんと呼んでいた。
母も自分の子供たちを呼ぶときに「さん」を付けて呼んだ。
そういうことは子供の頃からの習慣だから、名前に「さん」を付けるのは母にとっては自然なことだった。
それで、父と結婚してから、姑に名前を呼び捨てにされたのを憤慨していた。
親にも呼び捨てにされたことがないのに、と。
私はそういう立場になったことがないのでわからないが、親にさん付けで呼ばれ慣れていて、義理の親とはいえ他人から呼び捨てにされたら不快に感じたかもしれない。
と、ここまで書いて思い出したが、叔母は自分の子供たちを呼び捨てにしていただけでなく、私や弟たちのことも呼び捨てにしていた。
母にはさん付けで呼ばれているのに、叔母に呼び捨てにされるのは不愉快だった。