ビジネススクールでインストラクター
マイコンベース銀座での仕事がなくなったので、人材派遣会社に登録して単発で仕事をもらい、企業にワープロの入力業務をしに行った。
秋にはビジネススクールのパソコンインストラクターになった。
そこにはIBM5550とNEC9801があり、インストラクターが2人いたので、私は彼女たちとシフトを組んでパートで教えていた。
東芝の日本語ワープロ専用機もあり、そちらは専任のインストラクターがいた。
私はNECは使ったことがなかったので、IBMを教えながら、空き時間にNECを使わせてもらって使い方をマスターした。
ちょうどパソコン用の日本語ワープロソフトが出始めた時期で、「一気」や「一太郎」などが次々に発売された。
マルチプランと同じような表計算ソフト「ロータス1-2-3」もこの頃に出て、NECではこれを使った。
スクールでこうしたソフトを導入すると、講習用のマニュアルを書く必要が生じ、私がマニュアル書きのためにも通うことになった。
そうこうするうちに、元からいたインストラクターが辞めて新しい人が入ったりして、私が専任インストラクター兼教室管理をするようになった。
教室管理とは、パソコンクラスで使うソフトを選択したり、カリキュラムを決めたりすることで、校長がパソコンには疎くて私に一任してきたため引き受けたのだった。
ところで、このビジネススクールで教え始めて間もなく、右耳の下にしこりがあることに気が付いた。
リンパ腺が腫れているのだろうと思ったが、何日経っても腫れが引かないので、地元の病院の耳鼻科に行って診てもらった。
検査の結果、それが腫瘍であることがわかって、入院・手術となった。
そのときのことは「多発性神経繊維種症まとめ(退院後 8)」に書いたので、ここには書かないが、ビジネススクールの仕事は1ヵ月半ほど休むことになった。
復帰してからもしばらく声がまともに出なかったので、生徒全員の前で大声で話せないから、1人1人のそばまで行って一緒に画面を見ながら説明した。
大声を張り上げても声が割れてしまったし、話し続けると咳き込んでしまった。
また、ものを食べたり飲んだりするのも容易ではなく、喉の右側が動かないので、どうかすると食道ではなく肺の方に行ってしまい、そうなると咳き込み続けて食事どころではなくなった。
人と喋りながら食べるなどもってのほかだった。
ワープロソフト「一太郎」と日本語入力システム「ATOK(エイトック)」を開発したジャストシステムの「一太郎はこうして生まれた」を読むと、私が初期のパソコンに関わっていた時期と重なり、何もかもが非常に面白い。
これらの開発を担っていたのは創業者の妻である浮川初子で、私と同い年だが早生まれなので学年は一つ上。凄い女性だ。
ITに興味のある方には是非読んでいただきたい。
私は読みながら何度も感動した。
第1回:ジャストシステム創業、日本語処理システムの開発
第2回:「太郎」への思い
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?