階上の住人 (前編)
2003年の雑記帳より
郊外の1軒家から都内のマンションに越して来た時、同じフロアは1軒1軒挨拶に回ったが、集合住宅暮しの常識がなく、階下と階上には挨拶に行かなかった。
それで、階上にはどんな人が住んでいるか知らなかった。
引っ越してしばらくは上の物音が気にならなかった。
住んでいるのかいないのかわからないくらい静かだった。
そのうち、夜中に話し声がするのに気がついた。
最初は夫婦喧嘩かと思った。
男女の声が交互に何かを言い合っているのだが、何を言っているのかは聞き取れない。
こちらも宵っ張りの朝寝坊で夜中に物音をたてるから、階上の住人が夜更かしなのは気が楽だった。
それにしても大声には違いないので、うちはともかく、上や隣には迷惑だろうにといらぬ心配をした。
激しく言い争っているかと思えば沈黙が続き、ようやくおさまったかと思えばまた言い合いを始める。
2時頃から延々4時近くまで続き、やがて疲れたのか静かになってクラシック音楽が流れてきた。どうやら夫婦喧嘩はおしまいらしい。
それがテレビの音だったことは後でわかった。
隣のおばさんから、階上の住人はIさんという一人暮らしの老人だと聞いたのだ。
しかし、実際に顔を合わせてどんな人か知ったのは、引っ越して3ヵ月近くたってからだった。
その年の暮れの30日、お昼近くになってキッチンの天井から水が漏ってきた。
Iさんのところで流しの排水設備を直していたようだが、前の日に完了して職人が帰ったはずだった。
おかしいと思って言いに行ったが、Iさんは留守だった。
翌日の夕方また水が漏ってきたので言いに行くと、またしてもIさんは留守。
仕方なくドアに貼り紙をしておいた。
Iさんは帰ったのかどうかなんとも言ってこなかったが、夜になってまたひどく漏り出した。
上の階に見に行くと中に明りがついていた。
帰っているなら連絡してくれてもよさそうなものだのに。そう思いながらブザーを押すと、インターフォンから返事が返ってきた。
ところが、何度名乗っても聞き取れないらしく、マンションの通路は音が響くので夜遅くにいやだなと思いながら、大声で名前を怒鳴らなければならなかった。
あまり何度も聞き返すので、いやがらせかと勘ぐりたくなったほどだ。
そのうち、Iさんも諦めてドアを開けた。中は大音量でテレビがついていた。これじゃあ名前が聞き取れないはずだ。
「貼り紙をしておいたんですけど」と言うと、水道屋に聞いたら、パイプの詰まりを見るためにテストした時に流した水が、土台のコンクリートにしみ込んでいて漏るのではないかと言われたとのこと。
それならそうと知らせてくれればいいのにと思ったが、じゃあ4〜5日様子を見ましょうと言って戻った。
ところが水漏れはだんだんひどくなり、ぽたぽたと音を立てて落ちるようになった。
11時頃にいったん止まったのでやれやれと安心していたら、12時過ぎにまた漏ってきた。
どこかパイプに穴が開いているか詰まっているかで、上で水を使うと時間がたってから下に漏ってくるのだろう。
その晩は水漏れが気になって良く眠れなかった。
翌日は元日で、外はいい天気だった。
水漏れも止まっていたので気分も良かったが、午後になってまた漏り出した。
流しの上の天井は茶色くシミになってしまうし、お皿やカップを乗せてある棚も水浸しになってしまったので、前の日に全部洗ったのにまた洗わなければならなかった。
もう一度水漏れを告げに行き、Iさんを連れてきて見せた。
結局、排水工事が不完全だったのだが、修理は職人の正月休みが明けるまで待たなくてはならなかった。
それまでは洗面所で食器を洗って、流しでは水を使わないようにするとIさんは言った。
内心「当然でしょ」と思ったが、口では、
「すみませんねぇ。そうしていただけると助かります」
と言っておいた。
Iさんは「お宅にご迷惑を掛けてはいけませんから」と言ったが、こちらが水漏れでいやな気分になったことや、天井にシミができてしまったことや、排水で汚れた食器を何度も洗ったり、戸棚の戸を拭いたりしなくてはならなかったことは考えてもいないようだった。
「すみません」のひと言もなく、お正月を過ぎて工事が終わってからも何の挨拶もなかった。
それから1年か2年して、今度は浴室とキッチンの境目から水漏れした。
Iさんに言いに行くと、相変わらずテレビの大音量と煙草の煙が充満する部屋にいて、大声を張り上げて話さないと聞こえなかった。
Iさんは少し耳が遠いのだ。それでテレビを大音量にするのだった。
漏っているところを見に来てくれるように言うと、Iさんはらくだのシャツと股引のままサンダルを突っかけてやってきた。
浴室のシャワーのあたりから漏っているのを見て、ちょうどシャワーを付け替えたばかりなのでそのせいだろうと言った。
すぐに直しますと言って帰っていった。
今度も天井と壁にシミができたが、それについては何も言わなかった。
漏れた水の量が少なかったこともあり、Iさんに見せた後でせっせと拭いたので、壁のシミはさほど目立たなくなったが、天井には10cmほどの長さの薄茶色のシミが残った。
Iさんは小柄で小太りで、向いの奥さんの話では80を過ぎているということだったが、そんな年には見えなかった。
なぜ一人暮らしなのか、奥さんや子供がいたのか、最初から独身なのか、隣のおばさんにでも聞けば教えてくれただろうが、別に聞きもしなかった。
ただ、きちんと片付いたキッチンや、水回りの清潔さ、趣味の額や調度に囲まれた部屋からは、一人暮らしでも不便を感じないどころか、快適に暮らしていることが見てとれた。
几帳面で、堅実で、気が小さい。そんな人物像が浮かび上がってきた。
2度目の水漏れ事件の前だったか後だったか、不意にIさんがやってきたことがある。
意を決したという表情で、
「昨日、お宅でバルサンを焚きませんでしたか?」
と言う。
ペット禁止のマンションなのでIさんには言えないが、うちには猫がいるからバルサンは焚けない。
「バルサンを焚かれるとゴキブリがうちに入ってくるんですよ」
Iさんは私がバルサンを焚いたと決めてかかって苦情を言いにきたのだ。
私は床の隅に置いてあったコンバットを取り上げて見せた。
「うちはバルサンじゃなくて、これを使っているんです。よく効きますよ。今年はゴキブリが出ないですもの」
Iさんは疑わしそうにコンバットを眺めた。
「引っ越しの時に家具の裏を掃除しないで持ってくるでしょう。家具の裏に卵がついていて、越してきてから孵るんですよ。バルサンを焚くとゴキブリがみんな逃げて、それがみんな窓からうちに入ってくるんだから」
Iさんは声をふるわせて訴えた。
私が越して来てからもう1年以上経つんだけどと思いながら、
「お宅にあった卵が、暑くなって孵ったんじゃないですか?」
と言うと、Iさんはとんでもないと言わんばかりに激しく首を振った。
「そうじゃない。うちにはゴキブリはいないんですから。外から入ってくるんですよ」
「うちもゴキブリは出ていませんよ。バルサンも焚いていないし」
それは本当だったが、Iさんはまだ疑わしそうな顔をしたまま、同じ文句を繰り返した。
私は辛抱強くコンバットの効能を説いた。
やがて、Iさんは観念して帰っていった。
(つづく)
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