『仮面ライダーBLACK SUN』:メモ(3):最終話まで観た

序盤は「まるで永井豪の『仮面ライダー』だな」と思って観ていたけど、中盤からは、むしろ(宇多田ヒカルの元夫が監督した)CASSHERNキャシャーンな感じで、結局最後までそうだった。つまり、誰一人救われない物語。物語の最後まで生き残ったアオイたちも「救われていない」。何しろ、アルカイダ的なテロ集団の頭目になったわけだから最悪の人生。

あと、『ジョジョ』な感じもあった。創生王とシャドームーンとダロムの「スタンド」な能力と、創世王の「エシディシの脳」な心臓。

第1話から登場している「怪人に理解のある警官」をどう使うつもりなのかずっと気になっていたけど、第9話で答えが示された。「改心(転向?)」したビルゲニアと「刺し違える」役。なるほど、巧いなあ、と思った。また、嘗て、ビルゲニアの指図で、怪人の材料として捉えられていた人間たちを殺しまくったSATが、ビルゲニアと殺し合うのも巧い。組織の一員としての個人の有り様の救われなさ

弁慶の仁王立ち状態のビルゲニアを見つけても、あおいが、泣いたり叫んだりしないのも好い。

のぶひこ(シャドームーン)は、手袋が一文字隼人。髪型もそうかな。

あおいが、安置されているしゅんすけ(すずめ)の遺体を見る部屋にかかっているカレンダーは「2022年11月」

第10話の、急な「仮面ライダーなオープニング」には笑った。「変身ポーズ」に続く「視聴者サービス」ですね。あるいは、嘗て、ガンダムが必要もない「合体」をしなくてはならなくなったのと同じ種類の「圧力」かな。

別角度からの総論的なことも言ってみると、あくまでも『仮面ライダー』なので「着ぐるみ感」は大事。オトナの観賞に耐えられる物語(←見てくれでなく)を『仮面ライダー』という「見た目」で語ればどうなるか、という試みだと思う。『仮面ライダー』を「時代劇」に置きかえてみると、ピンと来やすいかもしれない。ど真ん中の現代劇では「やりすぎ感」が出てしまう内容・表現でも、時代劇という「見た目」にすると、少しexcuseが効くように、結構な残酷物語でも『仮面ライダー』でやっちゃうと、観客の目を「眩ませる」。他の例ですぐ思いつくのは、「見た目」は「かわいい切り絵」の『サウスパーク』や、「見た目」は「動くぬりえ」の『ガンダム』など。どちらも、「見た目」と「作品体験」のギャップに騙されたり救われたりする。

【おまけ】
なぜ「誰一人救われない」のかと言えば、それは、登場人物たちの〔活動・理想・理念〕が全て、「生命現象」の枠内での〔活動・理想・理念〕だから(ということは、つまり、この『仮面ライダーBLACK SUN』も典型的な「生命教」信者のための物語ということ)。生命現象に於いて、個体は全て消耗品だし、この作品の登場人物(ゆかり?)が言っていたように、単なる「通過点」だから。生命現象にとって、個々の生物個体は、日々新陳代謝される皮膚の細胞と同じ。比喩ではなく、実質として、そう。その個体が、BLACK SUNであろうと、SHADOW MOONであろうと、堂波であろうと関係ない。個体の「優秀さ」「思いの強さ」「運の良さ」は、生命現象という「大きな本体」から見れば、ブラウン運動レベルの差異。個々の生物個体は、それぞれに抱く「理想」「正義」「信念」「理念」「愛」「平和」のために、競い合い、殺し合うが、生命現象という「大きな本体」自体の存続を脅かさない限りは、どの個体がどうなろうと同じことなのだ。生命現象という「大きな本体」の「神=意思」である「自然淘汰」は、個々の生物個体の「生き死に」や「盛衰」には何の関心もない。だから、生物個体は、嘗ても今もこれからも、誰一人救われない


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