「モンティ・ホール問題」に関する昔のメモ

「モンティ・ホール問題」。

そもそもの情況はこう。

テレビ番組でアナタは高級自動車を勝ち取るゲームに挑戦している。ドアが三つあり、一つのドアの後ろには高級自動車(アタリ)、残り二つのドアの後ろにはヤギ(ハズレ)が隠されている。高級自動車が隠されているドアを選べば、アナタはその高級自動車を手に入れることができる。無論、アナタは「アタリ」のドアは知らない。一方、司会者は、「アタリ」のドアを知っている。

アナタは三つのドアの中から一つを選ぶ。ドアはまだ開けない。ここで司会者が、アナタが選ばなかった二つのドアのうちの一つを開けて、その後ろにヤギ(ハズレ)がいることを示す。残ったドアは二つ。どちらかに高級自動車が隠されている。アナタが最初に選んだドアか、選ばなかったドアだ。ここでおもむろに司会者がアナタに提案する。
「ご希望なら、今、ドアを選び変えても構いませんよ」

さて、アナタはドアを選び変えるべきか?

これが「モンティ・ホール問題」。つまり、二択になった時点で、最初の選択をそのままキープするのと、最初に選ばなかったドアに乗り換えるのとでは、アタリを引き当てる確率に違いがあるだろうか、という話。

三択問題の最中に一つの選択肢がハズレだと判明し、「形として二択問題になっただけ」なので、直感から云っても、確率の〈常識〉から云っても、最初の選択を放棄する理由はない。つまり、アタリを引きあてる確率は、最初にそれぞれ3分の1だったものが、次にはそれぞれ2分の1になっただけなのだから…と大勢が考えた。

だが、当時、人類最高の知能指数(228)を誇ったマリリン(女性)が「この場合は、二択になった時点で選びなおした方がアタリを引き当てる確率が高い」と新聞(のコラムか何か)で云ったもんだから大騒動になった。大騒動というのは、世界中の数学教師や教授と呼ばれる連中が、マリリンあんたはマチガッテル、IQが高くても数学に関しては所詮素人だ、などと新聞に投書したのだ。

で、スッタモンダの挙げ句、結論としては、やっぱりマリリンのほうが正しくて、異議を唱えたりマリリンをバカにしたりした数学教師や教授の方が間違っていたということになった(だから、多分、本当はここまで含めての「モンティ・ホール問題」なのだろう)。

数学は好きじゃないから、面倒な計算抜きで、正しいとされたマリリンの主張を説明すると、こういうことだろう。

最初の三つのドアから一つを選んだ時、それがアタリである確率は3分の1。一方、選ばれなかった二つのドアも、アタリである確率はそれぞれに3分の1ずつ。しかし、こちらはその3分の1が二つ(ドア二つ分)ある。この「選ばれなかったこっちは二つある」という認識が重要。つまり、気付くべきは、司会者がハズレのドアを一つ除外したあとの「二択」が、実は、残った二つのドアの間の単純な二択ではなく、アナタが最初の選択で手に入れた「当たる確率」を、アナタが最初に放棄した「当たる確率」と入れ替えるかどうかという意味での二択になっているということ。具体的に言うなら、「最初に選んだドアをやめて、最初に選ばなかったドアに選びなおす」は見せかけで、司会者からの提案の真意は「最初に三つから一つを選んだけれど、それは今キャンセル扱いにして、最初に選ばなかった方の二つをまとめて選んだことにしてもいいですよ」ということ。それに気付けば、マリリンの云い分が正しいと知るのに、コンピュータ・シミュレーションは要らないし、面倒な数式も要らない。もっともっと単純化して言ってしまえば、マリリンは「三本のクジから一本だけ引くのと二本引くのとでは、二本引く方が当たる確率は二倍でしょ」と、言っているだけなのだ。

なんでこんな簡単なことでモメタのか? そっちの方がナゾなくらい。

で、わかっている人には余計な続き。

「モンティ・ホール問題」でたくさんの数学者が間違った。でも、では、どの道に迷い込んで間違えたのか?

こういう例を考えてみよう。アナタは二人兄弟だ。父親が、1番から3番までの三つの箱を示す。一つの箱には一万円、他の二つには1円ずつ入っている。どれでも一つだけ選んで、その中身が貰えるというゲーム。つまり、大枠は「モンティ・ホール」と同じ。アナタが欲しいのは当然一万円。アナタは兄で、先に箱を選ばせてもらえた。アナタは1番を選ぶ。次に弟が3番を選ぶ。せっかちな弟は、アナタが1番の箱を開ける前に3番の箱を開け、そこに1円が入っていることがわかる。さて、このとき、アナタはマリリンのご託宣を思い出す。情況がとてもよく似ている、というか全く同じに思えるからだ。アナタは、1番を放棄し、2番を選びなおすべきだ、と判断する。あなたのこの判断は正しいのだろうか?

答えは、1番を選んだままでも、2番に選びなおしても、一万円を当てる確率に違いはない。この場合は、マリリンの主張は通用しないし、マリリンも前のようには主張しないだろう。マリリンをバカ呼ばわりして、結果大恥をかいた多くの数学者が思い描いたのはこの「兄弟」のケースだ。これこそが日常生活でふつうに体験することだから無理もない。

では、マリリンの主張が適用出来る「モンティ・ホール」の場合と、マリリンの主張が適用出来ない(ということは多くの「間違えた数学者」の主張が間違いでない)「兄弟」の場合とでは何が違うのか? それは、残った二つのうちの一つを開けた「司会者」と「弟」のそれぞれが持っていた情報だ。司会者はどのドアがアタリかを知っていたが、弟はどの箱がアタリかを知らなかった。つまり、司会者の〔ハズレのドアを開けるという行為〕は確率には支配されていないが、弟の〔アタリを知らずに自分で選んだ箱を開けたという行為〕は確率に支配されている。これだけ。

マリリンの主張が成立するためには、上でも述べたように、のちの「二択」が、最初の三択の時に生じた「当たる確率」の「入れ替え」になる必要がある。どのドアがアタリかを知っていた司会者の〔ハズレのドアを開ける行為〕はそれを実現するが、どの箱がアタリ(一万円)かを知らなかった弟の〔ハズレの箱を開ける行為〕からはそうはならない。

全く同じに思える情況、つまり、「アナタが最初の三択から一つを選んだあと、アナタが選ばなかった二つのうちのハズレの一つが除外される」という情況は、その情況を生み出したのがアタリを知っている者か、アタリを知らない者かで、確率的に全く違ってしまう。そして、この〔「ハズレを除外した者」が「司会者(アタリを知っている者)」なのか「弟(アタリを知らない者)」なのかを、アナタが知っているかどうかで、アナタが見当をつける確率に違いが生じる〕というのが、所謂「ベイズ確率」の真髄なのだけれども、長くなったので、今日はやめとく。

(アナトー・シキソ)2012年5月22日
(穴藤)2022年9月18日

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