【英語無手勝流】助動詞の否定文のこと
この前、いつものように「ラジオ英会話」を愉しく聴いていたら、あの「日本一の英語教師」の大西泰斗が、「will not」を(多分、うっかり)「willの意思を否定する」などと説明していて驚いた。別の日には、「can not」を(きっと、うっかり)「可能性の否定(輒ち、canの否定)」と説明していた。言うまでもなく、「will not」の「not」は「will」を否定しているわけではないし、「can not」の「not」は「can」を否定しているわけではない。なぜなら、大西泰斗自身が何度も説明している通り、英語の「not」は後ろに来る「単語・文」を否定する単語だからだ(因みに、日本語話者が「will not」や「can not」の「not」が、前にある(向かって左側にある)「will」や「can」を否定すると考えがちなのは、日本語の否定文で用いられる「〜ない」の「ない」が、直前の(向かって左側の)単語や文章を否定するからだろう)。
英語教師や英語学者や英語のnative speakersが何と言おうと、助動詞の否定文の「not」は助動詞を否定しているわけではない。だからこそ、助動詞の否定文は、助動詞の意味合いを持ち続けていられるのだ。日本で「will notはwillの否定」とか「can notはcanの否定」などを説明された気の毒な英語学習者は、ときどき、単語それぞれの意味は分かるのに、〔助動詞の意味が否定された形の日本語の文〕にしようとするとわけがわからなくなる〔英語の助動詞否定文〕に出会うことになる(実体験は数々あるが、今急には思い出せないので、具体例は出さない)。
「I will not go there」を、日本式の「will not はwillの否定」と理解して、「私はそこへ行くつもりはない」と訳しても理解に困ることはない。「I can not go there」も大丈夫(「私はそこへ行けない」)。「I may not go there」になると、少し怪しくなってくる(私はそこへ行くことが許されていない?)。「I shall not go there」になると、もう、なんとなく、機械的に訳しているだけで、ニュアンスを掴みきれなくなっている(私はそこへ行けない?行くべきではない?)。最後に「I must not go there」になると、英語教師の「特別な説明」がないと完全に意味を取り違える。輒ち、この場合、「私はそこへ行く必要がない」ではなく「私はそこへ行くべきではない(=変な日本語だが、要するに、私はそこへ行かない必要がある)」ということになる、と。「mustの否定文」は「例外扱い」にされるのだ。しかし、勿論、そんなことはない。mustの否定文が「例外」に見えてしまうのは、そもそも、〔他の助動詞〕の否定文の方の「認識」が間違っているからだ。
「will notはwillの否定」と思い込まされている脳には、例えば、「I will not go there」は「I will not + go there」のように見えてしまう。「can not」や「may not」「shall not」の文も同様。「must not」の文もそれは同じで、だから、「I must not + go there」と見えてしまい、結果、「そこへ行く必要がない」と誤読してしまう。
〔「not」は、後ろの〔単語・文〕を否定する〕という大原則からすれば、それぞれの文は、「I will + not go there」「I can + not go there」「I may + not go there」「I shall + not go there」であり、だから、「I must + not go there」となる。それぞれを、不自然な日本語になることを恐れず直訳すれば、「私は、そこに行かない、つもりがある(will)」「私は、そこに行かないことが、可能である(can)」「私は、そこに行かないことが、許されている(may)」「私は、そこに行かないことに、なるだろう(shall)」、そして「私は、そこに行かない、必要がある(must)」。「must not」は例外どころか、「must not」の訳し方のほうが「本来の」「正しい」訳し方なのだ。
動詞の直前に置かれた「not」が、直後の動詞を否定する形に違和感を覚えるのは、助動詞文の中の「主役」の動詞を見誤っているから。助動詞文の「主役動詞」は、実は、助動詞(「助教授」みたいで、名前が良くない)の方で、助動詞のあとから出てくる動詞は、或る種の「形容詞(或いは、説明)」。助動詞文の話者の「気持ち」を考えてみれば分かる。話者の気持ちが一番乗っているのは助動詞である。助動詞文の「主役動詞」が助動詞だということは、所謂「be動詞」で考えると、ピンとくるだろう。「be動詞文」の「主役動詞」は、無論、be動詞であり、その後に来るのは、形容詞でも副詞でも動詞ingでも、とにかく「ただの説明」。そして、be動詞の否定文でも、notが否定するのは、前にあるbe動詞ではなく、後ろにある〔単語・文〕。或いは、禁止を表す命令文を考えてみてもいい。「Don’t go there」という文の場合、「主役」の動詞は「go」っぽいが、実は「Do」であり、真の意味は、「Do + not go there」、輒ち、「そこに行かないということを、やれ!」なのだ。そうそう、肝心なことを言い忘れていたけど、「主役動詞」は否定されない。だから「主役動詞」。
どうしても「I will + not go there」のように見えないときは、所謂「to不定詞」の否定文を思い出すといい。例えば、「I try not to go there」は「I try + not to go there」であり、意味は「私はそこに行かないようにする(変な日本語に直訳すれば、私はそこに行かないよう試みる)」である。これを、〔「will not」は「willの否定」〕式に、「try not」は「tryの否定」と誤解すれば、「私はそこに行くことを試みない」と誤読する(因みに、「私はそこに行くことを試みない」は「I do not try to go there」で、「not」はちゃんと、後ろの「try」を否定している)。
と、このように理解すれば、例えば「must not」と「don’t have to」を混同することもなくなるし、「can not」と「be not able to」は「言ってることの根っこがまるで違う」ことも簡単にわかるようになる。
結局、助動詞はどれもこれも、「正体」は「I think」や「I feel」の意味の「挿入句」を一語で表したものでしかないのだから、それを否定したら、その「挿入句」をまるまる文から取り除いただけになって、単なる「助動詞なしの文」になる。
(穴藤 2024年8月21日)