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18週と2日。

Twitterの方では途中で色々耐えられなくなってポロポロ呟いてたけど、年末に妊娠が発覚して、しれっとマタニティ生活突入してた。

そして結果的には人工死産という形で、3月18日にお別れをした。

まだ全然悲しくてというか、とにかく寂しくて考えると涙が止まらなくなることも多いんだけど、書くことで少し気持ちを整理できるっていうのも見かけたのでつらつら書いてみる。

この辺の話は個人の倫理観とかそういうのがあるし、良いも悪いも正解も不正解も正直ないと思ってる。何を選んでもみんな苦しい。だからこの件についての批評は求めてません。そんな話がしたいんじゃない。

そして読みやすさとか全く考えずに思いつくまま書いていくし誤字脱字あると思うけども、もしよければお付き合いください。

結婚して2年くらいたって、なかなか子ども出来なくて流石に不妊なのでは…と2人とも検査うけて、そして自分に要因があると分かったのでゆるっと不妊治療開始。

スタートした時は誰にも言ってなかったから受診すべきタイミングで上手く仕事休めなかったり、怪我して長期で入院したりその他諸々、時間かかりながらきたので、待望の赤ちゃん!!ということでめちゃくちゃびっくりした。

びっくりしすぎて信じられなくて日を変えて検査薬2回くらい試した(笑)

タイミング見ながら受診してたけど排卵もちゃんと出来てるのかはっきり分からないし、もともと生理も不順。基礎体温もダメな時はガッタガタ。

ただ子宮のサイズとかは平均的だし筋腫あるとか目立ってなんかあった訳でもない。

タイミングみてもらいながら、血液検査もやったり、しんどかったけど卵管通気テストもやったり、クロミッド飲んだり。今回もちょっと時期違うかも…と言われてまだかかるなー(汗)とか思った矢先だった。

ちなみに体外受精については凄い悩んでて、費用の問題もあるけどもしそれで妊娠しても自分の病気が遺伝してたら申し訳ない気持ちが強すぎて怖くて出来ないかもしれないとは話してた。だからあとやるとしたら造影剤(痛いらしいからやだなとは思ってた)とか人工授精くらいかな…そんなにたくさんもう選択肢ないかもな…とか考えることは多かった。

だから正直妊娠もうダメかと思ったりもしてた。

そんなこと考えて、年齢もあるし先のこともちらほら話してた時だったから純粋に嬉しかった。

その後病院行ってまだ6週くらいだったけど心臓動いてるのが分かって、ほんとに妊娠してるんだと分かって、めちゃくちゃほっとした。私妊娠できる体だった。しても良かったんだ。

ほんとに居るのかどうかあんまり実感わかないままだったけど大事にしてしたつもり。幸い悪阻が軽くて吐くこともほぼなく、魚が嫌とか野菜の煮た匂いが嫌とか全体的に量が食べられないとかはあったけど、酷い悪阻の人に比べたらめちゃくちゃ元気だったと思う。米が美味しくてたまらなかった(笑)

病気の関係があるからハイリスク妊婦としてこまめに病院に通いながら1月下旬までは大きな問題なく過ごしてきたけど、2月初旬に胎児のお腹のあたりに少し飛び出た何かがあるのと通常より厚い浮腫があるのが分かって。

もしかしたら染色体異常とかそういう病気を持っているかもしれないといわれた。

それでももともと遺伝もするかもしれないと思っていたし、多少ならば障害や病気があろうが育って産まれてくれるならなんでもいいと思った。その覚悟は主人とも同じだった。

でも週が進む事にどんどん悪くなって、臍帯ヘルニアの疑い。しかもちょっと出てるとかじゃなくてもう胃から下の内蔵が全部出てしまってるような酷い状態。臍帯ヘルニアって産まれてから治すことが出来るんだけど、出てる部分が大きすぎて発育の邪魔してるぽくて、このままではその手術が出来るだけの体が育つかも不明。

そして骨の発達があまりよくないこと。これは遺伝の可能性が高かった。この点についてのみは素直にうん、そうか、ってするっと受け止められた。

さらに3月の初めには水頭症のようで脳が小さいことが分かる。確かにエコーで見える頭のなかは黒かった。色々重なりすぎて、このままでは継続して30週くらいまで頑張って産んだとしても(もともと私の体の大きさ的に30週が限度というのがあった)、生きることは難しいかも、と言われた。トリソミーの疑いも出てきた。

この状態だと諦める人も多いのが現状だと言う話もされた。

ほんとにそうなのか、なんか手は無いのか、NICUの先生などの見解を聞いたけど、運良く生きて産まれてもどんな状態か分からないし、手を尽くすけれど手術に耐えられない可能性、手術が出来るまでの期間を待てない可能性、もうとにかくいい所がなかった。

身内から「その子の幸せも考えてあげないと」と言われたりもしてて、もともと幸せって親がこうだから幸せなんて決めるものではなくて本人が幸せかどうか決めるものだし、親はあくまでそのためのサポートをするだけだと思ったけど、もし、「幸せだ」と思うことすら難しい場合は?治療ばかりで苦しい思いをしてその後元気になれるなら頑張って行こうと思うけど生きることが難しい場合は?幸せと思うとか思わないとかそこまでいけない場合は?とか考えたらめちゃくちゃ難しかった。

私の体の負担を考えるならば早い週で継続するのかやめるのか決めなくてはいけなくなった。結論だすのは3月12日。

主人とどうしたいか話した。大きくなってるこの子を諦めるのは辛いしもしかしたらの可能性も否定したくなかった。でも所見が悪すぎて、生きるのが難しい、産まれても相当悪いと言われてこのまま妊娠を継続するには2人とも辛すぎる、というのが答えだった。

もっと精神的に大人なら違う答えがあったかもしれないとは今でも思う。 言い方は悪いけど、どんなに状況が状況でも我が子を自ら「殺す」ことに違いはない選択をするわけで。それが世の中的に良かったと思われるものでは無いかもしれないし。

でも可能な限り方法を探して先生にも考えてもらって、そして2人で悩んで悲しみながらだしたら答えを間違いとしてしまうことは嫌だったので、これで良かったのだと納得はしている。

もう数日悩んでもいいよと言われたけど、延ばすことも正直苦しかったし、病院行くまでにこう言われたらこうしようと言うところまで話していたので少しだけ2人の時間もらって最終確認。

私だけが背負わないようにと主人はあえて「申し訳ないけど今回は諦めてほしい」と言葉にして言ってくれた。めちゃくちゃ悲しいこと言わせてしまった。

長く子どもを持つことを躊躇ってた主人がやっと子ども居るのもいいかも、と思ってくれたのに。元気な子を宿せなかった。子どもにも申し訳ないし主人に対してもほんとに申し訳ない。私のせいでは無いし誰のせいでもないよと言ってくれたけど、私の体の要因は少なからずあったんじゃないかと思うからもし健康ならこんなことならなかったかもって考えずにはいられなかった。

そして答えを先生に伝えて。人工死産の手続きがスタート。

先生は医者として1番安全な方法をとるのが当たり前なので不満あるとかじゃないけど、すぐ入院して中絶の処置をしようとなってその急さに面食らった。とはいってももう18週がくるので待ってられないのも事実。

入院は3月16日。子宮口を2日かけて拡張して、3月18日に陣痛誘発剤による出産。3月19日退院。そんな予定。

そんなあっさりなんや!!?ってのと、私の体では正産期近くまでいくと経膣分娩は不可なので帝王切開マストなんだけど、週数が少なくて赤ちゃんも小さいので経膣分娩の形がとれることにめちゃくちゃびっくりした。今後のこと考えても可能なら切りたくはなかったので良かった…というのも少しあった。

とりあえず仕事すぐ休まねばと翌日最低限の引きつぎをする予定だけ立てて、もう強制的に16日から休み。

最後の週末は、入院の書類書いたり、最後だなといつもよりいっぱいお腹撫でてみたり、主人と写真を残して、出来るだけ思い残しのないように過ごした。悲しくて涙が勝手に出てしまうことも度々。ごめんねと私のとこに来てくれたことにありがとうが半々。

あと、エンゼルケアの一環として着せてあげる服を縫えるよと言われていたのでその服の生地を探しに手芸店へ。コロナの影響でマスク手作りしてる人が多いんだろうね。ガーゼ素材の生地の少なさ…(汗)

内臓が出てしまってる関係で性別が確認できなかったからどっちでも大丈夫そうな色と柄を選んで帰宅。少しでも綺麗な状態で着せてあげられるように帰って水通しして目を揃えて布用のスプレー(ファブリーズみたいな)をふってアイロンかけ。

あとは4日とはいえ入院するので必要そうなものの荷造り。(入念にやったのに箸忘れた…。阿呆…。)

そしてあっという間に入院日。

入院日の夕方にはすぐ1回目の子宮口拡張。

ラミナリア桿という、海藻みたいな(材料は海藻らしい?)直径数ミリの棒を子宮口に挿入する。水分を吸ってだんだん膨張していって広げていくらしい。

事前に痛み止めの座薬入れてもらってるけど、そんなん関係なくめちゃくちゃ痛い。何が痛いて子宮口を掴まれるのが痛い。子宮口て掴めるんやね…とか思ったのは一瞬。とにかく痛い。叫ぶ人もおるらしいのよく分かる。

太い針を刺されてるみたいな鋭い痛みで私は声出すよりは「ひっ…」って吸う感じの小さいのや「いっ…(痛い)」って感じのもう声にならん感じの悲鳴やった。ひたすら痛い。

1本の予定が意外と入るということで4本。

挿入が終わって器具諸々外れると痛みは割と穏やかで少し酷い生理痛みたいな下腹部の鈍い痛みがするだけで案外普通に動ける。

数時間するとちょっとずつ痛みが強くなっていくのは膨張してるからなんだと思うけど、地味に痛いし圧迫感も増してくる。

気を紛らわす意味も込めて、ずっと裁縫してた。1日目であー結構痛いぞと思うくらいなので2日目でラミナリア桿増やされたら最悪、裁縫どころではない可能性もあったし。8割くらい1日目で進めてあとは2日目に。

夜はちょっとは寝れるけど痛いのと圧迫感でトイレ行きたくて3時間とか4時間くらいしか続けて眠れない…起きたらしばらく寝付けない…そんなの繰り返して翌日めちゃくちゃ眠い。

ぼんやりしていたけどすぐ2回目のラミナリア桿挿入。前日入れたのを抜いて新たに入れる。

やっぱり痛い。でも個人的に入れる痛みは1日目よりマシ。多分開いてるとこに入れるから全く開いてない時に比べると、くらいの差の話だけど構えてたよりは頑張れる痛みやった。

なげえぇぇぇ…って思って耐えてたけど、結構開いてくれていて、この時点で14本。なので夕方に予定されてた3回目はやらずにこのまま翌日まで過ごすことに。3回目で15本が目標だったからバンザイ。ただ本数増えたから生理痛みたいな痛みの増加と、お腹の外から触ってもちょっとわかる違和感。あとだんだん座ってるのも寝てるのもキツくなってきて姿勢に困る…。 トイレ(大きいほう)行きたい気もするけど朝出血も結構してたからいきむの怖いしそもそもそれはほんとにトイレなのかラミナリアの影響なのかももう分からんくてもうずっとゴロゴロしてた。こんなしんどい思いをするのね…。どんなに医学発達していてもこんなもんなのか…としみじみ。

まぁでも耐えらない痛みでもないし、どうしても夜気になるようなら痛み止めもらえば良いし。

あと心のどこかで人1人殺すのにこんなもんでいいんだったらなんぼでも耐えるわって気持ちもあった。

裁縫の続きを進めて、着せてあげる服と帽子を完成。我ながら可愛くできたと思うよ。病院で使っていいよと出してもらったリボンで縁飾って、レースで帽子に花作って。 看護師さんも可愛い、これ喜ぶよって言ってくれて、病院でボランティアで作ってくれてるやつ着せてもいいかななんて考えたりもしたけどやっぱり作ってよかったなと思った。

悲しいことの準備してるの分かってるしそれ自体進めてるの辛くない訳ではなかったけど、何もやらなければ後で出来たかもしれないことを数えて悔やむかもしれないし、作業してる時は少ないけど自分の子にしてあげられることがあるのは嬉しかった。こうしたら喜んでくれるのかも、みたいなこと思うのも楽しかった。

そして翌日。あんまりスケジュール分かってなかったけど朝食たべたらすぐ診察室よばれてラミナリア抜いて、そのまま陣痛誘発剤を投入された。

主人に来てもらうように言った方がいいですよねって聞いたらまぁ時間かかると思うから待ちが長くなるかもしれんけど…早く着く分には問題ないから…ということでそろそろ家出てね~と呑気に連絡。

そのままタオルとか飲み物とか最低限の物持って、分娩室へ。

いつでも点滴落とせるように、針だけ刺してもらって、ちょっとトイレ行きたい感があったのでトイレ行ったり20分くらいは部屋にあるソファでじわじわ痛くなってくるお腹に耐えながら待機。

だんだん痛み強くなってきて横になってた方が楽だなと思い始めたので分娩台(ベッドみたいにフラットにしてあった)に横になって、いつ破水してもいいようにズボンだけ脱いで、その下にパッドを敷いてもらって待つ。

なんやろね、あの強烈にお腹壊したみたいなきゅーっとする感じは凄いね。あれを何時間とか長ければ1日単位で耐える妊婦さんてやべえって思った。

私もだけど、痛くなり始めてはいたけどここからまだかかるよなって思ってたから看護師さん達も隣の部屋で準備しながら時々様子見に来てくれる感じで、もちろん先生もいないし、主人は向かってる最中だし。頑張らねば…とか思っていたけど、分娩台で横になってから15分くらいかな?急に今までと違う強い痛みがきておぉ!?って思ったのと同時になんかおりてくる!!??何これ?!!みたいな感覚。

お通じですか!!?みたいな。思わず1回目何か出そうなの耐えてしまった…。

その5分後くらいにまた同じような痛みでなんか出る感覚もその前より強かったから多分これ破水なんだと思って少し力んでみたら一気に破水。誰もいなかったからナースコール押して破水しました(汗)って伝えると同時に、塊っぽいものがドバっと出てくる。

看護師さん達入ってきた時にはほぼお腹の中のもの出ていて、胎盤も胎児も綺麗に出てたらしい。そこから慌てて先生呼びに行ったり点滴繋げたり血圧計繋げたり。

死産の時って産声上がらないお産なのでかなり辛いと感じる人も多いのをネットで見たりしていたけど、あまりに急というかスポーンと出すぎて私ずっとキョトン(゚-゚)としていてむしろびっくりしたせいで笑ってしまった…

主人ももう少しで着く予定だったけど「終わった…」って送ってえらい驚かせてしまった。

立ち会いするかしないかとか話あったんだけどそういう次元ではなかった(笑)

先生到着して子宮内に残ったもの少し出されて、主人来るの待つのと出血があったからしばらく安静でということで分娩台の上でぼーっとしてた。病院、コロナの影響で夫でも病室面会NGになってたから(NICUの病棟だったし)会えるのは分娩室のみだったのもあって、赤ちゃんは綺麗にしてもらってから主人が来たら一緒に対面しようということに。

今だから思うちょっとした心のこりは、お願いしたら産まれてすぐで抱っことかさせて貰えてたんだろうかということかな…でも怖くてそこまで聞けんかったんよね…。

主人が到着して、おくるみに包んで棺に入れてもらった赤ちゃんと対面。5ヶ月の胎児って教科書とかで見たことあるようなやっと人っぽい形になりはじめたくらいなので人によっては気持ち悪いと感じたりするかもな状態なんだけど、そこは流石我が子なんで、恐る恐る見た時に、あ、可愛い…って思えてホッとした。ガーゼで作った布団かけてあったのでお腹より下はどんな風になっていたのか見ることはできなかった。さすがにそこまで見る勇気もなかった。でも看護師さん達がめちゃくちゃ小さい手なのに可能な限りで胸の前で指を組ませてくれたりして、縫ってた服も着せて貰えてて、凄い穏やかに見えた。気のせいか?とも思ったけど主人と左の口角が上がってて笑ってるみたいに見えるねって話してた。

小さくて色んな疾患見つかって、確かに頭の形成も左右で違うというか水たまってるんかなと思うような形をしていたりとあったけど、そんな状態でも私のお腹のなかで頑張ってここまで大きくなってきたんだというのを目の当たりにして、子どもって凄いんやなって心底思った。

胎盤が綺麗に出なければ出血が多くてその分危険になる可能性があったし(前置胎盤気味だったらしい)、陣痛長ければその分消耗するし、何度か薬使うと副作用とかの心配もしなくてはいけなくなるし、何よりしんどい時間て私だけではなくて赤ちゃんにとってもしんどいわけで、そう思うとあまりにもするっといき過ぎてびっくりしたけど、お互いに苦しまないようにすっと出てきてくれてなんていい子なの…と褒めたい気持ちがいっぱいやった。

この時点では産んだばかりでまだ処置とか残っていたりスムーズとはいえ子宮が収縮して行く痛みとか出血で軽い貧血起こしていたりとかあって、あんまり悲しいとかそういう所まで気持ちはゆかず。

少し落ち着いた頃に先生が医学書もってきて、産まれた子の状態をみてエコーで見てた時と実際の状態の違いを教えてくれた。

1番違ったのは臍帯ヘルニア。

へその緒の中に内臓が入り込んでるとかではなくて、羊膜?の外?なんだったけ…とにかくそもそも内臓が作られてる場所がおかしくて(お腹に入るとか入らんとかそういうレベルでもなく)、へその緒がほぼなくて、内臓がそれぞれ胎盤にダイレクトに繋がってるという状態だったということ。病名あったけど難しくて覚えられなかった…。だからどのタイミングで産まれていたとしても生きるのは相当困難だったらしい。

染色体異常とかとも少し違って、だから私の病気が原因とかとも違うし、作られる時の場所がおかしかったために発達にも影響してしまった、という感じだった。

ずっと内臓のせいでエコーで見えないと思ってた右足は、見えないんじゃなくて、内臓によって圧迫された影響でそもそも育っていなかったらしい。

あと、手足の発達も良くなくて小さめと言われていたけどこれは実際はそうでもなくて、全体的なサイズは小さいものの、極端に成長出来てないとかでもなかったと。

だから、次に妊娠した時にまたこんな風になるのではと恐れるようなものでは無いよと。私の病気が直接の原因では無いよと言ってくれた。気に病むというかそこに原因もあるよなって思ってた部分が救われた気がした。

主人が帰って病室もどってすぐご飯になったりもしたし、たべたら気疲れだと思うけどどっと眠気がきて夕方まで起きたり寝たり繰り返してた。血も出てるし起きる気にもなれなかった。

夕方に取ってもらった手形と足型の貼られた色紙と、出生時の状態を記入してもらった母子手帳と、ほぼなかったけど頑張って取ってくれたへその緒を受け取った。

手形と足型、すっごいちっちゃいのにちゃんと指が5本綺麗に出来ていて感動やった。そしてずっと不明だった性別(見えなくて)は男の子だったことも判明。なんでか私女の子かもなーなんて思ってた。そうか、男の子だったのか。さぞ賑やかになったんだろね。

夕飯時に、希望すれば夜一緒に赤ちゃんと過ごせますよって看護師さんに言われたけど一旦断った。翌日退院で家に帰るし、産んですぐ現実を目の当たりにされるみたいで怖いなってのがあったから、今夜はナースステーションで預かってやってくださいってお願いした。

でもご飯たべて特段やることも無くて、お腹の痛みも少し落ち着き初めてぼんやり過ごしてたら今ここで一緒にいなくて後で後悔しないかなとか、頑張って産まれて来たのにひとりぼっちなのか…とかどんどん悲しくなってきて、寝る前にやっぱり一緒に居させてくださいってお願いして連れてきてもらった。

そうか、ぼっち寂しいよな…と思って、一緒に居られない時間に1人にならないようにと、服作った布を少し切って、おしぼりアートを参考に(ちょっと怪しげな)ウサギをこしらえた。

看護師さんが可愛いね、穏やかな顔だね、よく頑張ったねと連れてきてくれた時に声掛けてくれたのが、自分のこと褒められてるみたいに嬉しかった。あの日の夜勤の看護師さんには感謝してもしきれない。

連れてきてもらって気づいたけど産んですぐって分娩台で横になってたから私あんまりしっかり顔見てあげてなかった。

連れてきてもらった時は棺からだされて、アイスノンの上におくるみでくるまれた状態だった。だからよく顔が見れて。消灯時間きていたので部屋の大きいあかりは消して、手元用のライトだけつけて、さっき作ったウサギを顔の横に置いて、しばらく話しかけたりごめんねとありがとうといっぱい言いながらびっくりするくらい泣いた。

もうあとはお別れの手続きを進めるしかないし日数もほんの少ししかないから、悲しくてもこの日夜一緒に居られてよかったと思う。

たった5ヶ月、妊娠がわかってからは約3ヶ月。親として何かしてあげられたかというと全然何も無いと思う。でも私この子の親なんだなって思った。可愛くて仕方ない。主人に似てるんじゃないかなってとこ見つけたり、手の指長くて綺麗だねぇっておもってみたり。こんな愛しくてだからこそ悲しくて、こんなの自分の子ではなければ感じないんだろなって思った。

翌日の朝、診察とかもあるし、退院までの時間はまた一旦ナースステーションに預かって貰うようにお願いをして。退院の準備して。お腹のチクチクした痛みはあるものの、昨日産んだの嘘みたいな感覚だった。赤ちゃんのこと触れられるとうるっとしてしまう状態が夜から続いていたけど、それ以外は思いのほか平常心で、普通に会話もできるし軽い貧血起こしてはいるなと思ったけど比較的元気。ほんとスムーズにいったおかげなんだと思う。

主治医の先生や、不妊治療でお世話になってる先生、あと骨形成不全症の関係でお世話になってる先生が朝からきて顔みて声掛けてくれて、不妊の方の先生はまた心が前向いたら相談してねと言ってくれた。この先生は妊娠諦めるってなった時にも泣いてくれる優しい先生なので、今度は先生も一緒に喜べたらいいなって素直に思える。だから多分またそんなに時間をあけずに勇気だして先生んとこ来れると思う。

主人が迎えにきてくれて、棺にはいった赤ちゃん膝の上に抱えて帰宅。

赤ちゃんだけ家に残して、主人と二人昼ごはんと市役所へ死産届を提出。この時に翌日火葬することも決めて、そのあと棺に入れてあげる花を買って帰宅。花言葉を見つつ選んだ、スイートピー、ピンクのガーベラ、オレンジのカーネーション、かすみ草、マーガレットをプチプチ切りながら入れていく。小さいので賑やかすぎる様な気もしたけどがらんとなってるよりはいいよね。

なんかどんどんお別れなのねと思うと悲しくなってきて、退院した日の夜はこれ以上は顔みえられなかった。でもしてあげたいと思ったことはやったはず。

主人と普通の会話もできるしテレビも見たりご飯もちゃんと食べられる。でもふとした時に急に涙がでたり、布団に入るとホッとするのか泣けてきたり、なかなか自分でもどうしたらいいのか分からない状態がおきて戸惑った。死産を経験した人がずっと泣いてしまうというのも見たことあってそうなのか…とか思っていたけどこういう事なんやろね。泣きたいわけでもないんだけど止まらなくて、とにかく悲しいと言うか寂しい。お腹もへこんでしまって色々気をつけていた体勢もとる必要が無い。喪失感ていうのはこういうことなんかと思った。

泣いてていいよと言ってくれるので気が済むまで泣いて、落ち着いたら寝て。

火葬の日の朝は、多分火葬場に行ったらもう顔見れないなと思ったので朝顔を見に行って。

家を出る前にもう一度顔みて、ついにお別れだね、ありがとうね、ゆっくり休むんだよと声をかけて棺の蓋を閉めた。

22週未満の胎児なので骨は残らないから収骨出来ないし、灰も持ち帰ることが出来ないので、火葬場でお焼香して火をつけたら帰宅、という何ともあっさりでどう表現したらいいのか分からない気持ちだったけど、この日はとても天気が良くて暖かくて、どうか無事に空に登れますようにと祈るばかりだった。

この日の夜もやっぱり寂しくて、またグジグジ泣いてしまったけど、多分こうやって泣けるだけ泣いておくことも自分のケアになるので涙出る時は我慢しないでおこうと思った。私だけが辛いのでは無いということだけは忘れないでいたらいいかなと。表に出さないだけで主人だって悲しいのは同じなのだ。

戸籍にも残してあげられないから、もし次に子どもができたら第一子は戸籍上はその子になるんだろうけど、私達にとっての第一子はこの子だったし忘れることは一生ないと思う。

話すと悲しいことばかりが目立つけど、妊娠分かったことをはじめ、ちょっとずつ大きくなることの感動や、喜んでくれる人が身内だけでなく多くいること、こんな風に育てたいね、こんなことさせてあげたいね、私達の子どもだからオタクになっちゃうね(笑)とか、パパと呼ばせるかお父さんと呼ばせるかとか、この先の生活に楽しみが一気に増えて毎日めちゃくちゃ楽しかったこと、軽くてもあったつわりや身動きの不自由さとか食べたり飲んだりしてはいけないもののアレコレもいつか会えるためだと思えばなんと楽しいことかと思えたこと、たくさん幸せな時間をもらって過ごせた期間にありがとうとしか言えない。

主人と共有するために入れたアプリ、18日に停止したらトップに空に行って月の上で笑ってる赤ちゃんの画像と「I always desire your happiness!!」という言葉が表示されていて気づいて泣いてしまった…。このアプリ考えた人優しいな…。

まだまだ悲しいなとかメンタルが弱ってしまってこれを超えるの時間がかかりそうだけど、少し仕事も休むことにしたのでのんびり過ごして、体の回復もそうだけど心の安定を少しでも取り戻して行けたらいいなと思う。

まずは寝室片付けして、貰った手形足形飾ってあげるスペースを作ろ。生花は扱い苦手なので、プリザーブドフラワーの小さいの買って来てもいいよね。写真も撮ったのでそれも飾ってあげたいね。

四十九日はこどもの日というなんとも覚えやすくおいなんだ男の子だからってそんなお祝いしてくれみたいな(笑)と思わず笑ってしまった。折り紙兜で良ければ折ってあげるし、ちゃんとそこまでには片付けするよ、大丈夫だよ。普段からだとわかりづらいけど実は綺麗好きなんだよ?

まだ数日しかたってなくてこんなわちゃわちゃな心境で書くのもなぁとは思ったけど、溜めておく方がしんどかったので書いてみたらやっぱり少しあの時こう思ってたなとかそうだったなとかを思い出すので整理できる部分あって良かった。

こんな経験二度としたくはないけど、決して無駄だったとか嫌だっただけで終わってないので、何か得るものがあったんだと、これがいつか私のなかで大切なこととして活きていくんだと思っていきたい。自然にそう笑って言える日がくるといいな。

最後に。

ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。無駄に長く読みにくかったかと思います。

そしてこんななんて声かけていいやらと思うことについて、LINEやTwitterなど色んな手段で心配して声をかけてくれる人、見守ってくれる人、全ての方に感謝申し上げます。

やめると決めたことを、どちらを選んでも大変な状況でよく決断しましたと肯定してくれた言葉、今は自分のことだけしっかり考えたらいいからという言葉、間違いなくママだったという言葉、悲しい結果だけど受け止めてくれるお母さんを選んだのかなと思うという言葉、色んな場面で貰ったたくさんの言葉は、悩んでる時や辛い時に孤独を感じてしまう時に1人ではない、孤独ではない、見守ってくれる人がいると安心感を与えてくれました。Twitterでいいねしてくれるだけでも見守られてる感じがめちゃくちゃあってほっとしました。

こんなにも暖かくて優しくて、そんなにして貰える人でもないのにと思う気持ちもあるけど、こういうことにも気づかせて貰える機会だったんだなとも思いました。

彼岸で親族が集まった際に生後半年くらいの甥っ子を見て、悲しいとか子どもがいることを僻むような気持ちとかでなくて、あーこんなにも産まれてくることは尊く愛しいんだなと素直に思えたので、まずは体が癒えたら、恐れずに2人目のこと考えていけると思います。元々、あんまり後ろ向きには生きてないし、それが私の強みだと思ってきたし。今すぐはさすがに無理でもそんな風に前向きで進んでいけるようにしたいと思います。

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