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ヘブライ人への手紙第8章

前奏 バッハのカンカーテ

詩篇70篇

メッセージ

クリスチャンは
「神さまを信じないと地獄に墜ちます」
「聖書を読まなければ、道に迷う」
と言われて来た。

社会は共同体なので義務がある。
宗教も秩序を持たせるために、人々に要求する。

「主を知れと教える必要がない」
とパウロは言う。

これは興味深いものである。
知るということは学ぶということによる。
本を調べる、聖書を学ぶということは主を知ることである、と多くの人は思っている。

「ヘブライ人への手紙」は神学的な内容で重要な箇所。学び尽くされている。
著者パウロは、主を知れと自分自身も語って来た。にもかかわらず、主を知れと言わなくても良いと言った。
主ご自身が一人一人の中に、心に、直接語りかけられる。つまり聖霊を送られるのである。
小さな者、子供のような無知なもの、或いは、
大きな者、年老いて知識を蓄積したもの、年齢に関係なく、それぞれに主は聖霊を送って語りかけて下さる。

バフェットが言うには、私達というのは、イヤイヤ仕事をするくらいなら、その仕事を辞めた方がいいという。自分がやりたい仕事をする、自分の心に忠実であれ、と言っている。
私達は夢を持っている。しかし、現実があるので、夢を後回しにしている。
やりたくないことをやって生きている人は夢に向かっている人を見て、いいなぁと思う。自分の生き方と乖離している。

日本人的に言えば、仕事をするということは努力する、根性を出してする、我慢するということである。

世界的な言い方ですれば、クリエイティブなことが出来ない人、価値がないみたいに言う。
昔であれば大手の部品を作っていれば良かったが、今は工夫して自分達がクリエイティブになり、商品開発しなければ、生き残れない。

作る側も作らせれる側も大きなストレスがある。

アメリカのように成功している国の国民でも、病んでいる人が多い。自分の心とやらなくてはいけないことが乖離しているからである。

アメリカ人はクリスチャンのパーセンテージが高い。しかし、アメリカ人は精神科に通っている人が多い。病んでいる。
多くのアメリカ人は神さまを受け入れている。自分の心と生き方が乖離している。神さまから自分の生き方の方向性にストップが来るから、精神的に参るのである。

今日のテーマは何かというと、
私達の新しい契約、
主を通して主を知るということ。
そこに立ち戻るということ。
その3点である。

神は創造者。新しい物をその時代を創るお方である。
神さまが創るので、古い時代の物を新しい物に書き替えられる。歴史を見てもそうである。昭和時代に今のスマホが想像出来ただろうか。

契約が更新される。律法は私達が生きる上には価値のあるものであるが。
イエス様は私達の契約を更新された。新しい契約である。新約聖書に明記されている。イエス様は一人一人を赦された。神さま共に生きることを望まれた。

私達はそこに立ち帰る必要がある。
大事なことは神様が創造されるということを私達が認知する事である。今現在、困難な時代に私達は直面している。しかし、アブラハムの時代と同じように神と対話して生きることができる。神と対話して自分の生き方を問いただすことが肝要である。

人間の脳は今も昔も容量は変わっていない。
蓄積することで、時代が発展して来た。
AIの時代が到来している。
コンピュータは記録するので、人間は忘れるがコンピュータは忘れない。
コンピュータは本を何万冊でもインストール出来るので、それから引き出せる。

ロボットを作る人には人間にそっくりに作るには難しい。例えば微妙な動きとか。

私達は神様の創造物であるということを忘れている。人間と神様の関係も変化して来たが、常に神と共に歩んでいるということを忘れてはならない。人間が生み出した物よりも、神様が創造されたものが素晴らしい。規模が違うのである。

自然に触れれば触れる程、圧倒的な創造物だと分かる。
創造的であれ、という言葉によって、本当に観察される事象から離れてしまう。
日々の生活、仕事に明け暮れているので、創造的であるものから離れている。
芸術に代わるフェイク品が蔓延している。
クリエイティブであっても、色、質感、、、など色々なものをを無視して生きている。無機質な質感が続いている。

古い契約に固守しないで、イエス様の新しい契約に移行する。

世界は神さまによって支えられている。



ヘブライ人への手紙第8章

新しい、優れた約束の大祭司
今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、
人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。
もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。
この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。
『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。
『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。


詩篇70

【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】
神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。
わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き
はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。
あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

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