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人は2回死ぬということ

※一部直接的な表現をしています、予めご了承ください。

人が本当に死んでしまうのは、心臓が止まったときではなく人々に思い出されなくなったとき。
という言説がある。

私はそれとは別に2つの解釈を持っている。

1つは「その人が生きていた空間を失ったとき」。

私の母方の祖父は、私が生まれる前に交通事故で亡くなった。
物心ついたとき、帰省先といえば「おばあちゃん家」だったし、「おばあちゃん家」に着いたとき・発つときには「おじいちゃんになむなむにしようね」と教わってきた。

祖母は(加齢により足腰が弱くなったこともあるが)お仏壇のある部屋で寝ているし、祖父母が仲良く佇む写真を何枚も見せてもらったことがあるし、私が生まれる前の家族写真、母の子供の頃の写真、母と祖父の思い出の品…とにかく祖父が生きた時間・若かりし母が大切にしていた時間がそこには見てとれた。

(本筋とは逸れるが)孫の中では一番年上な私は、母が通っていた小学校を母と探検したり、祖父母に内緒でやんちゃをした時のエピソードを聞かされたり、母が子供の頃使っていたという箸を譲り受けて使っていたり(そしてちゃっかり実家に持ってきた)。

自分は暮らしていなくとも、母の思い出が詰まったその場所が大好きだった(サムネイル画像は「おばあちゃん家」の思い出です)。



2019年の末、それらがすべて奪われた。

お隣のご家庭の火の不始末により、「おばあちゃん家」は全焼してしまった。 


警察の方の調べと近隣の方が知る「おばあちゃん家のお隣さん」の性分から、これは偶然起きた不幸ではなく、お隣さんの不始末が原因であることは明白だった。

祖母がその家にいないタイミングだったことだけが不幸中の幸いだが、「おばあちゃん家」に確かに在った「おじいちゃん」や「おじいちゃんがいた時の家族の思い出」はすべて失ってしまった。

不慮の事故とはいえ、 私は「おじいちゃんは二度死んでしまった」「殺された」ように感じた。


少し時間を置いてからお墓参りついでにその焼け跡を目に焼き付けようと思い早一年。
2020年を生きた方ならお察しかもしれないが、新型ウイルスを田舎に持ち込んでしまうリスクを懸念し、まだ足を運ぶことができていない。


書いてたら辛くなったので、2つめの解釈は別の機会とさせてください。

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