【エッセイ】ひとはなぜ物語を読み、書くのか?
死ぬまでに一冊は自分の小説を出したい。
ぼんやりと抱いていた夢に一歩でも近づくため、思いを実行に移したのはほんの10日前。
noteは用途に応じてアカウントの使い分けが可能とのことなので、小説投稿用アカウントを作成した。
お題に即して言えば、まさにそのときが「エンジンがかかった瞬間」である。
それからは毎日こつこつとショートストーリーを投稿し続けている。
どれだけ未熟でも、とにかく書いて書いて書かなければ何も始まらない。
継続力にだけは自信があるので、一度エンジンがかかればしばらくは走り続けられるのではないかと思っている。
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物心ついたときから小説が好きで、大学進学時は迷わず文学部を選択した。
週に1~3冊ほどのペースで本(主に小説)を読み進めてきたが、最近自分も物語を作りたい!という思いが抑えられなくなり、今に至る。
小説を読んでいて、また書いてみて思うことがある。
ひとはなぜ、物語を読むこと・書くことをやめられないのだろう?
あくまで私なりの解釈だが、最近考えていることを書き綴ってみたい。
ひとは生きている限り常に何かを感じ続けており、それを表現したいという欲望がある。
まずこれが大前提にあると思う。
楽しい話、嬉しい出来事、悲しい事件、もしくはたわいもない悪口などは表現が容易で、友人との飲みの場等でよい酒の肴になり、それに伴う感情は発散され、うまく消化されていく。
一方で、嫉妬や憎しみなどの一般許容ラインを超えたマイナスの感情や、社会的な不道徳(道ならぬ恋など)や、ひどく恥ずかしい経験はそう簡単に表に出すわけにはいかない。
失望されて大事な友人を失うリスクがあるし、これまで一生懸命保ってきた自分の”素敵な”人間性が疑われるかもしれない。
これは避けたい。
でも、大前提である経験したこと・感じたことを誰かに聴いてほしいという思いは消えない。
そこで、(悪い言い方で言えば)利用されるのが物語ではないだろうか。
表立っては言えない秘密の経験や醜い感情にちょっとしたスパイスを加えてごまかしながら、架空の人物にその重荷を背負わせる。
登場人物が社会を痛烈に批判しても、不倫をしても、罪を犯しても、作者は一向にかまわない。
だってフィクションなんだから。
こう書くと小説家=悪人みたいになってしまうが、そんなことはないと思いたい。
それは物語を書いている私自身が悪人と言っているようなもので、自分で自分の首を絞めることになる。
それに、物語を供給し続ける人が多いのは、そこに需要があるからだ。
私は直木賞受賞後映画化もされた『何者』で有名な朝井リョウさんの大ファンであるが、朝井さんの作品の多くは突飛な設定があるわけではない。
ただ、登場人物の心情をリアルに描写する。
誰しもが経験したことがある、だけどあえて言語化しないことを、ここまで言ってしまうか!と驚愕するほど鮮明に描く。
朝井さんの作品を読むとき、私はしばしば共感性羞恥を感じるのだが、不思議なことに恥ずかしさを超えるほどの快感を覚えてしまう。
醜い感情や恥ずかしい感情を描いている作品ほどその傾向は顕著で、自分はもしかして変態なんだろうか、と考えることもあったが、実はそういう読者は多いんじゃないかと思っている。
つらつらと書き連ねたが、まとめると以下のようになる。
現実世界で表現できない感情を発散したいという欲望がある。
ある人は読んで共感すること(快感を覚えること)でその欲望を満たす。
それでも飽き足らぬ人は発信する側に回りさらにその欲を満たそうとする。
古来からこのサイクルがぐるぐると回ってきたのではないかと思う。
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私は今猛烈な欲望を抱えていて、それを発散せずにはいられない。
もしかしたらエンジンは空回りしてしまうかもしれないけれど、今は気の赴くままに走り続けたいと思う。