名前をつけたくない日の日記
子供の頃よく遊んでいた一歳違いのいとこが自殺したらしい。何日か前に他愛のない用事で実家に電話をかけたら唐突にそんなことを伝えられ、記憶のなかの剽軽な男と自殺という単語が結びつかずいまこれを書いていても変な心持ちがする。向こうは地元で家業を継いでおり、私は大学進学以来ずっと県外で暮らしていてあまり帰省しないため顔を合わせる機会はぐっと減っていたが、たまに会えば愉快によもやま話をしたしドライブに連れて行ってもらったこともあるし十年ほど前に行った私の結婚式には遠路はるばる駆けつけてくれた。要するに、数年に一回会うか会わないかぐらいの間柄だが仲は悪くなかったということだ。泣いて悲しむ感じではないが、かなりへこんではいる。私の親兄弟は近所同士で日常的な交流があったぶん余計ショックだろう。電話で話した時はいま大病院で死因を調べてもらっている最中で、◯日後に身内だけで葬式をする云々という話だったので相当バタバタしていると思われる。状況が状況だからかお前も帰ってこいとは言われず「あんたの名前で香典包んどくから」と言われた。ちょっとびっくりしすぎてあまり詳しいことは聞けなかったのだが、自宅で亡くなっているのを同居している彼の両親、つまり私にとっては叔父叔母にあたる人たちが見つけたらしい。この状況を想像するだけでもうかなりしんどいのだが、その葬式となるともうかなりしんどい。叔父さん叔母さんは大丈夫なんだろうか。大丈夫なわけないよな。ちょっとしんどすぎて語彙がいつにも増して貧弱になっているが勘弁してもらいたい。とっさにお通夜ムードという俗語が頭に浮かんだが、本物の葬式だからお通夜ムードなのは当たり前なんだよ馬鹿野郎。
話によると何十ページにもおよぶ手書きの遺書が見つかっていて、数日かけて書き上げたものらしく部分ごとに筆跡が違うとか、葬式はせず遺灰はその辺に撒いてくれと書いてあったなどということを聞いたがこっちとしてはなんで一見陽気に生きてるように見えた彼が自殺を決断したのか、どういう方法で死んだのかが一番気になる。ほぼ同い年の人間が自殺を選択したという事実も、こちらとしては気になって仕方がない。しかし、現地で私より大変な思いをしてバタバタしているであろう肉親たちにあれこれ訊くのはさすがに気がひける。もうちょっと時間が経ったら改めて話をきく機会もあるだろう。
そんなこんなで元気が出ない。惰性とか習慣でスマホを眺めるけど、Xの投稿とかも全然頭に入ってこない。おもろいおもんない腹立つ鬱陶しいとか無くて、とにかくどんな投稿も頭に入ってこない。字面は追えるが、なにが?という上の空な感じ。うどんの写真にうどんうまうまというコメントだけの投稿が「うどんうようよ」に見えて数秒考え込んでしまう始末なのでどうしようもない。空白の時間が生じるとどうしてもあいつの死のことを考えてしまうので仕事があるのはむしろ好都合なのだが、どうしても空白の時間というのは生じるものでそのたびにぼんやりとしたむなしい気分になってしまう。自分としては自殺を完全否定するものではないっていうか、まあ基本的に生きるのはつらいことが多いし死にたくなっても仕方ないよねという考えは変わらないのだが周りの人間はしんどい思いをするなあという実感がある。あとは、人って急に死ぬから今存在する人とは積極的に会って交流しといたほうがいいですよ、急にもう絶対会えないことになったりするので。というところだろうか。