インドネシア滞在記① インドネシア留学を決めた
夜の22時、すでに辺りは暗くなったスカルノハッタ国際空港。期待と不安を胸に、やや緊張気味にイミグレーションを通り抜けた私は、インドネシアに無事に着いたことを確かめるかのように胸一杯に空気を吸い込んだ。
それは生暖かく、初めてかぐ不思議な匂いだった。
空港の出口を抜けると、私の名前を書いたカードを持っているインドネシア人の男の子が2人。緊張とワクワクが最高潮に達しているのがわかる。
2012年7月、22歳。
これが、およそ2年にわたる私の怒涛のインドネシア生活の始まりである。
少し話は遡るが、私がインドネシア留学を決めたのは大学4年の夏だった。国際開発を学びたいと受験勉強の末に第一希望の大学と学部に入学したものの、学生時代の4年間の青春全てを柔道に費やした私は、最後の試合が終わり卒業後の進路を考え始めたとき、実は自分が何も勉強らしい勉強をしてこなかったことにうっすらと気づいていた。このまま社会人になってしまってはなんだかいけないような気がしていたが、机上で理論を学ぶのはどうも向いてなかったし、やる気も全くでなかった。
朝も夕方も休みも部活に明け暮れる中、次々と留学していく学部の同級生たちを横目に、「留学」という2文字に憧れはあったが、お金もなければ時間も現実感もなく、心の中の羨望の眼差しには敢えて気づかないふりをしていた。
引退後、やっぱり諦めきれずになんとなく大学の提携の交換留学先一覧を眺めていたとき、「インドネシアボゴール農科大学大学院 森林学部」の文字がふと目に留まった。当時の私はインドネシアについて何も知らなかったが、物価も安いと聞くし、なんとか奨学金でも自力で生活できそうである。何より「森林学部」という魅力的な学部にも惹かれた。なんだか急に胸がわくわくして、早速世話人の欄に連絡先が書かれていた増田教授を訪ねた。
増田先生はインドネシアの森林保護政策研究の第一人者で、彼女の大学院の研究室のメンバーはベトナム人、モンゴル人、インドネシア人、ラドビア人、カンボジア人、リトアニア人など超多国籍。公用語は英語で、もちろん修士論文も英語という国際色豊かすぎる環境だった。研究室を見せてもらうと、なんだか雑多な雰囲気にあふれていて、どこか日本ぽくなく、実際に少し異国のような香りがした。森林保護にも興味がわいてきたし、現地にどっぷりつかって体で学ぶのも面白そうだぞと思いはじめた。
生来、石橋は叩かず渡るタイプの私は「あなたこれからインドネシア語ができると重宝されるわよ。マレーシアでも通じるし。いいじゃない。おほほほ」という先生の言葉を決め手に、大学院進学、ボゴール農科大学への交換留学、増田先生の研究室(通称:増田研)への入部を一瞬で決めた。