丁寧な仕事


#私にとってはたらくとは
 十年前、インドネシアの大学に留学していた頃、私はインドネシア人の学生七人と一緒にある一軒の家で共同生活をしていた。イスラム教徒が四人、キリスト教徒が一人、仏教徒が一人、そして日本人の私と、小さな家の中は多様性とカオスで満ちていたが、どこか心落ち着く場所に違いなかった。家の前は背の高いヤシの木の道路だけが長く続いており、朝は常夏だというのにひんやりと肌寒く、少し霧がかった空気が頬に気持ちがよかった。
私が住んでいたその家は「ヤシの木通り三丁目」という意味で、通称「パルムティガ」と呼ばれていた。住み始めて少しずつわかってきたのだが、みんなが朝授業を受けに家を出ていくのと入れ替わりに、お手伝いのおばちゃんと、庭の手入れをする男の子がやってくる。私は最初、お手伝いのおばちゃんを大家さんだと勘違いし、日本から持ってきたどら焼きを渡して「どうぞよろしくおねがいします」と改まって丁重に自己紹介したが、ニルマラという同居人に「あれは大家さんじゃなくてお手伝いのビビだよ」とすかさず訂正された。ビビとはインドネシア語でおばさんという意味で、みんなこのお手伝いさんのことをビビと呼んでいた。ビビはムスリムだったので、ヒジャブと呼ばれる布で頭を覆ってやってくるが、家の中に着くと青いバンダナを頭の後ろできゅっと結びなおすのがいつもの仕事始めの合図だった。お手伝いさんが毎日家にいるという状況が初めてだったし、私が到着した七月はまだ大学が夏休み中で授業もなく暇だったので、私は興味深くビビの仕事を観察することにした。
 彼女の仕事は主に掃除と洗濯であるが、なかなかどうして素晴らしい仕事ぶりだった。ビビは家に着くと、まず家じゅうの窓という窓を開けて空気を入れ替えていく。そのあと、私たち七人の洗濯物にとりかかる。洗濯機なんてもちろんないので、洗濯板を使い、しゃがんで手作業で一枚一枚洗っていく。タライをいくつも使い分け、洗う、すすぐ、絞るという作業が一人の手の中で滑らかに行われていく様は見ていて気持ちがよかった。終わったら今度は庭にロープを張って洗濯物を干していく。なかなかの重労働である。洗濯物を乾かしている間に、みんなが食べ散らかした食器を洗って乾かして台所をきれいにし、大量のお湯を沸かして飲み水を作り、その日の夕食用にお米を炊いてくれる。洗濯物が乾いたら、一枚一枚丁寧にアイロンをかけて、きれいにたたんでいく。どうでもいい安物のクタクタのティーシャツもズボンも、ピシッとアイロンがかけられていく。
 すべての作業が終わったら、最後に全ての扉の上部に鍋をひっかけて、鍵を閉めてビビは帰っていく。私は最初この鍋を扉にかけるという作業が一体何なのか分からなかったが、実はとても重要な役割を担っていることを知った。このパルムティガは、女子学生が七人も住んでいるというのに、宝箱の鍵のような形をしたおもちゃみたいな鍵が玄関に一つしかなかった。八時になると内側から鍵をかけてなんとか防犯対策をしていたものの、それでもやはり不安だということで、ビビがいつも扉の内側に鍋をひっかけておいてくれるようになったのだ。外から無理やり扉が開けられたときは鍋が落ちるようになっていて、その大きな音で泥棒が逃げ出すか、あるいは泥棒に気づいていち早く逃げられるようにという作戦だった。幸い私の滞在中に泥棒が侵入することはなかったが、この鍋を使ったビビの古典的な防犯手段はとっても素敵だったし、おもちゃの宝箱の鍵みたいな頼りない鍵も好きだった。
 内心、大学生なのだから自分の身の回りのことくらい自分でやれよという気持ちもあったが、ビビがアイロンをかけてくれた服はいつもふんわりといい匂いがして、私たち七人の毎日の暮らしの中に、彼女の丁寧な仕事のぬくもりが確かに漂っていた。
 私は日本に帰国した後に就職し、すぐに営業の仕事をすることになり、異動するまでの七年間みっちりと濃い営業の仕事をさせてもらった。やってみてわかったが、営業というのはなかなかすぐには芽が出ず、こつこつと小さな努力の積み重ねの連続だった。それでも結局花が咲かないときもしばしばで、正直悔しい思いも何度もした。営業をしていると特にそうかもしれないが、誰かに評価されたいと焦ることも当然ある。自分の頑張りや努力が、誰かにちゃんと届いているのだろうかと不安になるからだ。そんな時、私はビビの丁寧な仕事のことをそっと思い出す。私は一体誰のために働いているのか、もう一度自分自身に問いかける。その度に、私の仕事が独りよがりではなく、巡り巡って誰かの心にほんの少しだけ、でも確かなぬくもりを届けられるように丁寧に働いていたいと、ただそう思うのだ。

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