老人の消えた街3
(3500字あります)
≪前回までの老人≫
「子供の頃に食べた果物をもう一度食べたい」
その一心で家を出た老人。しかし名前はおろか色や形さえ忘れ、VRによる高度情報検索でも答えが分からなかった。老人が諦めかけた時、ネット上のとある檄文を読んで鼓舞される。
「自分を肯定する座右の銘を装備せよ!」
その薦めに従い己のポリシーを思い起こそうとするが、胸を励ます言葉の一つさえ見つけられないのだった。
「胸を励ます言葉……」
呟いたまま、私は固まった。一期一会、切磋琢磨、温故知新。どれもこれも強い言葉のはずだが、なぜか空しく響く。
───これが痴呆、なのか?
苦い現実に胸が痛む。なぜこんなことに……?
怖気に震え、息苦しさを覚えた。心が弱ったことで、体調に異常をきたしたのだろうか……私は胸に手を当てた。おや、体が思うように動かない。
───違う、これは心の苦しみじゃないッ!?
私は本当に、今、誰かに首を絞められている!!!
VRの事じゃない、からめられた腕の感触が確かにある!!
頸動脈を圧迫する感触と同時に、突如頭をよぎる鮮烈な記憶。
───気をつけろ、これは十秒もかからずに意識を失うやつだぞッ!
即座、私は激しく抵抗する。
初手は後頭部での頭突き。すると予備動作を手で押さえつけられた。見えない敵の腕は堅牢で、綻びを作ろうとするも叶わない。渾身の肘打ちは、分厚い防護服を叩くかのようで効果が感じられなかった。次いで踵を振り下ろし、敵の足先を踏みつける。だが固い、まさかの安全靴!?
ならば股間狙いで後ろへ蹴り上げようとするが、ガクガクと足がうまく動かない。タイムリミットか。VRヘッドセットを外す余裕さえなかった。
もう、思いついた手はやりつくした。
やれそうな事は、やって、みた、んだ、よ……
敵の腕を無気力につかみつつも、意識が遠のいていく。私は左脇のホルスターからほとんど無意識で果物ナイフを抜いていた。朦朧としながらも、見えない敵の腕へ切っ先を這わせる。だが標的があるはずのその場所に、手応えはなかった。むしろ自分の手に激痛。
───しまッ!!
ああっ、左手のくるぶしあたりを切ってしまった。
その一方で相手が離れた感覚。結果、ナイフは脅しとして機能したようだ。
咳き込みながらヘッドセットを外し、慌てて振り返る。
私の眼前には、スーツ姿の女が立っていた。女は低い声で言う。
「近場只男(ちかばただお)だな」
涙でにじむ視界を指でこすると、ここを案内してくれた商工会議所の女性と分かった。
「近場只男。自宅待機令を無視した以上、痴呆の疑いで特殊老人保護施設へ護送する」彼女は冷徹な態度でそう言った。
───と、特殊老人保護施設!?
稲妻のように閃くワード、気の滅入る嫌な悪寒が蘇ってくる。
「嫌です、もう……そこには、戻りたくありません」
言いながら、見えそうで見えない記憶の存在を感じた。
「なぜ戻りたくないんだ近場。記憶があやふやなら、再入所すべきでは?」
「いや、ちょっと調べ物があって……」
「存在しない物を、あたかも有るように振る舞う意味が分からない」
「嘘じゃありません、ド忘れしているだけなんです」
「痴呆の兆候だ。それ以上蒙昧を発症する前に、安全な施設で療養した方がいい」
「えぇ、いや、そんな……嫌なんです。頭になにかされるのは、もう」
言いながら手に力がこもった。左手のくるぶしから血が流れ出ていく。
「近場……さん。危害を加えることが目的じゃない。ただあなたを確保したいだけだ。とにかく、止血した方がいい。興奮が冷めると痛むぞ」
女の語調が少し緩んだ気がした。私の傷に気取られたせいだろうか。見れば血が滲み、肌色と溶け合っている。いつの間にか手のくるぶしがジュクジュクになっていた。
呆然と眺めていたら、女が携行バッグから消毒液を取り出した。素早く私の傷口を清めると、彼女は手慣れた様子で包帯を巻いていく。
「オレのVR裸締めを切り抜けたのはお前が初めてだ」
意外な一人称だった。女性の口からオレとは。
「近場さん、武術の心得が?」
「いえ、そんな物は……」言いかけて、思いとどまった。確かに私の体には、チョークスリーパーへの対処法が染みついていた。
「……若い頃、救助活動チームに所属していましたから」
「そうだったのか、シルバーパワーも侮れないな」
「いやなに、昔取った杵柄というやつです」
昔取った杵柄……シルバーパワー……
唐突に婆さんの声が頭をよぎった。
『只男、この避難所じゃオレらの話をよく聞くんだよ』
おぼろげな古い記憶。シミだらけの老婆の顔。その声を皮切りに、他にも次々と脳裏に浮かんでくる。
『普通には無理でも、創意工夫で逆転できるのさ』
誰の口癖だったろうか。久しぶりに思い出した。
いつも、そう、いつも耳にしていたのに。
今は、そこから言葉が、自然と舌の上に乗っていた。
『おもしろきこともなきよをおもしろく』
ん、これは誰の言葉だったかな。
『何度でも這い上がってこい!』
そうだ、私はこの言葉で何度もチャレンジした。
思い出す声に励まされ、諦めたくないという気持ちが湧いてくる。
「はははっ、そうだった。私は転んでも只では起きない男だった」
「なんだと?」
戸惑う女をよそに、私の頭は、昔馴染んだフレーズで満たされていた。
子供の頃の記憶が、少しだけ鮮明になる。体を動かしたせいか、対話のためか。頭の中には、次に何をするべきか、戦闘以外の選択肢が浮かんでいた。
「手当てをありがとう。もう攻撃するつもりはありません」
果物ナイフをゆっくりとテーブルに置く。
「だから今一度、端末で調べさせてくれませんか」
少しの沈黙。小さなため息。彼女はベッドに腰を下ろして脚を組んだ。
「それでお前の気が済むなら、三十分だけ与えよう」
床に転がるヘッドセットを、私は再び手に取った。深呼吸を一つ。
VRに没入するが早いか、私は虹色の球体の前にいた。
ワールドガイドに問い直す。
「さっきの質問の続きだが、橙色の果物が気になる」
『OK、ソレならオレンジはどうでしょう。甘酸っぱくておいしいデスヨ』
「蜜柑じゃない。もっと、赤みがかった色なんだ」
『そういうオレンジもアリマス。あるいは、グレープフルーツでは?』
「ええと、もっと、こう、渋みの効いた色で、黒いシミなんかもある」
『NO、そんな果物はアリマセン』
「いや、あるはずだ。甘いだけじゃなくて、同時に渋さもあって……」
『残念ながら記憶違いでしょう。ソノ説明は見当外れデス』
「ああ、それだ!」
脳裏で何かが反応した。たぶん、答えから近い場所にいる。根拠のない確信。
「そう、外れがあったんだ。食べちゃ駄目というか食べられない失態、外れ」
『外れ? 質問者の意図をはかりかねマス。脈拍に異常、VR停止を推奨』
ワールドガイドが白々しく答えをはぐらかそうとしているように聞こえた。私は目を閉じて深呼吸を重ねた。別路線の攻め方を考える必要がある。
「例えば、腹を壊すとか、駄目な個体がある。そういう食べ物は?」
『キノコ、タマゴ、生肉、フグ、未調理の小麦粉……』
「果物では?」
『NO、該当するフルーツはアリマセン』
「仕方ないですね。では、他の食べ物を続けてください」
『陽が当たって緑に変色したジャガイモ、生水、川魚……』
「そうだ、魚介、なにか引っかかります。海産物に絞ってみてもらえませんか?」
『クラゲ、マス、タニシ……』
貝! それはとても、なんというか、おしい気がする。
「他にも食中毒に注意した方がいい貝は?」
『オイスター』
その瞬間、私の心臓は飛び跳ねた。カッカと体が火照り、時が止まったかのよう。それだ……牡蠣。今となっては別段、貝である必要はなかった。
夏季、火器、下記、垣。以前は、これらの言葉から何も連想できなかったが、今私の脳はギュンギュンと回転する。
───柿。
どうしても思い至れなかった果物!
なぜ、自分の記憶は飛んでいたのか。
私はワールドガイドに詰め寄った。
「別の質問だ。果物の柿を出してほしい」
『申し訳アリマセンが検索にヒットしません。ソノ果物は存在しません』
「そんなはずはない! 和菓子のような甘さで、時々渋い物もある!!」
『STOP。遺憾ながら、VRの利用停止を勧告します』
ワールドガイドは虹色の輝きを失い、見渡す限り灰色となった。
私の記憶は蘇ったのに、このVR端末とはどこか噛み合わない。
意図的に検索から外されている?
隠蔽……いよいよ本格的に疑うべきか。
AIを? それとも私の頭を?