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花園浄土

自作短編小説集『花園浄土』より「雪椿」一部抜粋

 からん、ころん。

 ドアベルの音が、静まりかえった店内にうら寂しく響いて消えた。晴樹は入り口に立って、空っぽのカウンターと、がらんとした席を見渡してからゆっくりと歩き出した。

 今はもう、この店の主であった祖父はいないし、客もいない。

 ここは静けさを愛する大人の男たちが集まる店だったが、今ほど静かだったことはない。祖父の好きだったジャズナンバーも、誰かの囁き声も、食器が立てる微かな物音も、豆を挽く音も、何もかもがなくなってしまった。店の外を走る車の音がやけに大きく聞こえてくる。

 祖父の定位置だったカウンターの内側にはグラスも器具も普段のままにあって、テーブル席には椅子もメニューも乱れなく置かれている。いつだって開店できる状態のまま、ただ祖父がいなくなってしまったために、この店は一週間閉まっている。長年染みついたコーヒーの香りだけが、店中の至る所から立ち上っていた。

 一週間前、祖父は心筋梗塞で倒れて、それっきりとなってしまった。六十八歳だった。病気どころか、風邪を引いているところさえ見たことはなく、嵐の日も大雪の日も欠かさず店を開けていた。これからも、いつまでも変わらずに在り続けると、何の根拠もなく信じていた。晴樹が物心ついた時からそうであったように、晴樹が成人しても、その先も――。

 父は単身赴任で家を空けることが多く、晴樹にとって男親の役割を担ってくれていたのは祖父だった。そして、この店の常連客たちだった。およそ祖父と同年代か少し若いくらいの、髪や髭に白いものの混じった男たち。父よりも随分と年上の男たちが、店の中をちょこまかと動き回っていた幼児を、少年を、そしてようやく中学生になって祖父とカウンターに並んだ晴樹のことを見守ってくれていた。

 晴樹がまだ小学生の頃、常連客がブラックを飲むのに見入っていると、祖父は晴樹にも同じくブラックを一杯差し出した。コーヒーの香りは好きだったから、それはきっととても美味しいものだと信じて口を付けたのに、あまりに苦く、とても飲めやしなかった。祖父は晴樹が残したそれを泰然と飲んで、「まだ早かったな」と言った。

 それが飲めるようになった時、あれは確か中学校に上がったばかりで、本当は我慢をして飲み干したのだけれど、祖父も常連たちも、「晴樹も大人になった」と言って囃し立てた。恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。

 祖父はあの時、晴樹に一つの秘密を教えてくれた。

 この店には、晴樹にとってあまりにもたくさんの思い出が詰まっていた。ここがなくなってしまうのは、つらいことだ。

 祖母と母はこの店に関心がないようで、親戚とも相談して、店を売り払う方向で話が進んでいる。せめて晴樹が成人していたのなら、母も祖母も、店を継ぎたいという晴樹の意思を無碍にはしなかったろうか。いいや、結局いつまでも子供のように扱われていくのだろう。

 祖父が恋しかった。そして、この店で常連たちと過ごした日々が。

 晴樹を、やがて大人になっていく一人の男として見てくれるのは、祖父と常連たちだけだったから。

 晴樹はカウンターから椅子を一つ引きずって、カウンター脇に並んだ祖父のコレクションの前に据えた。こぢんまりとしたガラスケースいっぱいに並んだ古めかしい玩具や楽器、そしてその隣に、周囲をポールと紐で囲って飾られた一枚の扉が置かれている。中でも扉は、祖父が最も大切にしていたものであり、晴樹にとっても特別な思い入れのあるものだ。

 それは一見すると、そう珍しくもないだろうアンティーク調の扉だ。扉と同じ赤褐色のマホガニー材で出来た枠ごと、天井と床の双方から太いワイヤーで固定されて、宙吊りになっている。鍵はそもそもないのだが、枠が歪んでしまったのか、この扉は開かない。

 客たちははじめ、祖父が扉をコレクションとしていることを珍しがったが、それ以上に、精緻な細工が施されていることをこそ驚いた。祖父が好きだった雪椿を模して、幹と、枝と、いくつもの葉が彫り込まれていて、まるで本物の枝葉が絡み合ったそのままを扉に閉じ込めたような立体感がある。咲いている花はないが、枝葉の真ん中に開きかけた可愛らしい蕾が一つ、大人の目の高さくらいのところにあった。この細やかな意匠を間近で眺めて心奪われない者はなかった。祖父の自慢の品だった。

 祖父は晴樹に、この扉をくれると言った。ブラックを飲み干したあの日だった。閉店後の静まりかえった店の中、祖父はこの扉に纏わる秘密を晴樹にだけ教えてくれたのだ。「大人になったから」と言って。

 もっとも、聞かされたのはとんだおとぎ話だったが。

 祖父はこの扉を、乙女の扉と呼んでいた。押しても引いてもびくともしないこの扉が、異世界へ繋がっているのだという。そこには世にも稀なる美しさを持つ乙女が住んでいて、開くべき時、開くべき者だけが、あるいは乙女自身がそう望んだ時にだけ、彼方と此方を繋ぐことが出来るのだそうだ。

 そんな話に目を輝かせるほど、晴樹はもう子供ではなかった。他の誰でもない祖父が、大人になったと認めてくれたのじゃないか。困惑しながらも見上げた、祖父が扉を見つめる横顔は真剣そのものだった。その語り口も、決して幼い子供に言い聞かすようなものではなく、だからこそ、晴樹は余計に困惑した。

「おじいちゃんは、信じているの?」

 そう尋ねた時、祖父は「これは晴樹と私だけの秘密だよ」とだけ言った。

 結局のところ、祖父が扉をどう思っていたのか、曾祖父の代から扉はあるという話だったが、一体どういう経緯で手に入れた物なのか、それについては何も知らない。祖父のいなくなった店に、扉だけがぽつんと残された。

 祖父は晴樹に扉をくれると言ったけれど、それは二人だけの秘密だ。母も祖母も、親戚の誰も知らない。

 店の処分に関して話し合われる中で、祖父のコレクションは貰い手のないものは売ってしまおうという話になっている。話はまだ扉のことには及んでいないようだが、きっと晴樹の意見など聞くまでもなく、他のコレクション同様に処分してしまうだろう。

 晴樹は椅子に腰を下ろし、いつ離ればなれになるとも知れぬ扉を見つめた。

 気がつくと、雨音が聞こえ始めていた。普段通りにジャズナンバーが流れていたなら耳に届かないような、繊細でか細い雨音だった。しばらくの間、晴樹は扉を眺めて過ごした。雨音は途切れることなく、強まることもなかった。

 どこかで、木の軋む音がした。

 それは人の足音によく似ていて、思わずカウンターを眺めたが、そこには誰もいない。ドアベルも鳴らなかったのだから、当然、誰かが入ってきたというわけでもなかった。

 不思議に思っていると、また音がした。

 すぐ近くから音が聞こえるので、椅子や足下の床が鳴るのかと思ってじっとしていたが、やはりまた聞こえた。音のする場所を探しながら顔を上げて、息をのんだ。

 扉が、生きている。

 扉の彫刻は淡い光を放ちながら、その姿を変えていく。彫り込まれた枝から、新しく枝が伸びる。たった一つの蕾をまるで慈しむように、見守るように取り囲んでいく。それらはマホガニー材の褐色から、本物の色彩へと変わりつつあった。葉は艶を帯びた深緑に染まり、無機質だった葉脈も今は瑞々しく見えた。輝くような琥珀色の枝が、伸びては折り重なっていく。中心に抱かれた蕾の先が赤く染まり、ゆっくりと膨れあがった。そして、柔らかな真紅の花が咲いた。その内に秘められていた目映い黄を露わにする。本物の雪椿となんら変わらない姿だった。

 唖然としている晴樹の眼前で、扉は枝葉を揺らさぬほど静かに、ゆっくりと押し開けられた。瞬間、ほんの微かな匂いを含んだ風が扉の向こうからやって来た。

 そこには、晴樹と同じくらいの歳の少女が立っていた。子供ではないが、大人というにはまだあどけない。扉の向こうは白く光り輝いて、彼女以外のものは何も見えなかった。

 祖父の言ったおとぎ話は、本当だったのだ。

 彼女は真っ赤なドレスを着ていて、鮮やかな黄色のコルセットを締めていた。まるで彼女自身が、一輪の雪椿の花のようだ。扉の内側から流れ込んでくる春のそれのような心地好い風が、彼女のドレスの裾をわさわさと蠢かせた。

 彼女は今し方夢から覚めてきたような半眼で、不思議そうに此方を見渡し、やがて、晴樹の方へと目を向けた。幾度かの瞬きを経て、彼女の意識が晴樹を捉えると、彼女は紅を差した真っ赤な唇を横に引いて微笑んだ。

 彼女の全てから、目が離せなかった。

 扉と彼女以外のものは何もかも、雑多なものに過ぎないと覚った。自分も、この店も、外の世界の何もかも。彼女の前には何であれ、同様に無価値なものに思えた。

 どれほど見つめ合っていたのか、それとも刹那のことであったのか、宙吊りの扉から、彼女は此方側へと足を進めた。虚空に踏み込み、彼女の身体が傾く。彼女の存在感に、呼吸すら忘れて棒立ちになっていた晴樹だったが、咄嗟に彼女へと手を差し伸べた。

 だが、晴樹の手が彼女に触れることはなかった。

 彼女の身体は晴樹を通り抜けて、ふわりと床に降り立った。

「――きみが、乙女か」

 晴樹の後ろから声がした。少年の声だった。

 振り向くと、晴樹とどこか面差しの似た少年が立っていた。十五、六歳くらいで、白いシャツを着て、きっちりと折り目の付いたスラックスをサスペンダーで吊っている。革靴も綺麗に磨き上げられていた。服装のためか、顔つきや背格好の具合よりも、いくらか大人びて見えた。

 彼女と少年には、晴樹の姿はどうやら見えていないようだった。

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