夜顔
春の初めに、死んだ祖母から一通の封筒が届いた。
どこか見覚えのある筆跡と、差出人の名を見た時は驚いた。開封してみると「芳隆へ」と書かれた白い小さな紙包みが入っていて、中身は植物の種だった。随分と昔、子供の頃に学校の課題で育てた朝顔の種に似ていたが、開いた紙包みの内側には、夜顔、と綴られていた。
祖母は、大きな家にひとりで住んでいる人だったと記憶している。
母を含めて、祖母の三人の子供は皆が家を離れていたし、芳隆が物心つく前に祖父は他界していた。芳隆にとって祖父は、祖母の家の仏間に飾られた写真の中の人だった。祖母は大きな庭のある古めかしい屋敷にたったひとりで住んでいた。母に連れられて時折訪ねたが、最後に訪ねたのは高校に上がる前の正月だっただろうか。不仲だったわけではないが、進学してからは友人との付き合いを優先にし、就職してからは仕事の都合もあって、かれこれ二十年も会わずにきてしまった。最後に見たのは、葬儀の時だ。
記憶の中の祖母というのは、母に少し似たところのある優しげな人だった。背筋もまだぴんとした、老婦人然という言葉の似合う気品ある女性だった。
それが、棺の中の祖母は全くの別人のようだった。
刻んだ皺の数、痩せこけた頬、窪んだ眼窩。芳隆の中の、二十年前の元気だった祖母は、すべて葬儀時の印象に塗り替えられた。生きているか、死んでいるか、それは勿論大きな違いであるけれど、骨に皮の張り付いたような痛ましい姿は、胸に来るものがあった。
祖母が亡くなったと聞いた時、悲しいとは思わなかった。ここ数年、親戚の年寄りたちがおよそ年齢の順に亡くなっていたので、祖母の番が来たことについて、誰にでもにいつは訪れる当然のこととして受け止めていた。ただ、入院していることは以前から母に聞いて、一度は見舞いに行こうと考えていたが、結局機会を逸してしまったことを祖母に申し訳ないと思った。
祖母の死後、祖母の家は博物館になるそうだ。
母も実家の系譜や歴史などは話題にしたこともなかったが、そこそこ歴史のある家系であり、家自体もかなり古いのだという。蔵には百年も昔の生活用品が多く残っているらしい。母方の親戚の誰だったかが財団法人を立ち上げて、家の中や庭を整備するという話も耳にした。
この計画自体は祖母の存命中からあったことで、祖母も賛成していたそうだ。庭は祖母が生涯掛けて丁寧に世話をしてきた花や木が植わっていることもあり、庭の整備計画には祖母もたくさん意見したという。庭から取り去ることになった植物に関しても、祖母が自ら譲渡する先を考えたそうだ。
祖母の名で届いた手紙には驚いたが、開いて植物の種が入っていたのを見た時、芳隆はその一つとして自分の元に夜顔の種が送られてきたことを理解した。
だが、封筒の中に入っていたのは種を包んだ紙だけで、祖母がどうしてこの種の送り先に自分を選んだのか、その意図が分かるものは何もない。聞こうにも相手はもうこの世にはなない。
ただ、祖母の字が自分の名を記している。
意図を記す言葉は何も添えられていなくても、ただそれだけで、何かの意図があって、伝えたい言葉があって、祖母はこの種の受取人に芳隆を指名したのだ。
学校の課題以外で植物を育てた経験のほとんどない芳隆に、母は「あなたが世話をするのよ」と念を押しただけだった。普段ならいつするのか、何が必要なのか、と顔を合わせる度に捲し立てるように言うのだろうに、種の件に関してはそれ以上何も言わなかった。
芳隆は自分で育て方を調べ、園芸店で真新しいプランターと用土を買い、慣れないながらも種を蒔いて軒先に置いた。
それが、五月の中頃のことだ。
* *
祖母の大きな家の中を、走り回る音がする。注意する怒声が聞こえる。
正月や盆に祖母の家に親戚が集まると、大抵いつも年少者は探検と称して祖母の家を駆け回る。部屋数も多いし、階段だって二カ所にある。探検や隠れんぼにはうってつけだ。誰が始めようと言うのかは知らないが、慣れた物音だった。そこに、従兄弟の中では年長者である美希子が加わって、小さな子供が箪笥によじ登ろうとしては怒声を飛ばし、階段で遊ぼうとしては怒声を飛ばすので、家の中はとにかくうるさい。
祖母はそれを怒りもしないどころか、賑やかで楽しいというのだけれど、芳隆にとってはあまり居心地が良いものではない。探検に面白みを感じるほどの歳でもなかったし、内向的な性格の自分には美希子のような監督役は務まらない。
女性同士の話で盛り上がる母と祖母に「お庭にいるから」と言って外へ行こうとすると、それを祖母が引き留めた。
「水筒を用意しますから、それを持って行きなさいね」
冷蔵庫の製氷室からがらがらと氷を引き出す祖母に「ありがとう」と伝えると、祖母は芳隆の方を向いて笑った。たくさんの氷を入れたステンレス水筒に、冷蔵庫で作り置きしてある麦茶を入れて、祖母は持たせてくれた。
「芳隆は、あそこが好きなのね。何か楽しいことがあるかしら?」
「うーん……別に……」
歯切れの悪いそんな返事に、祖母は笑顔のまま「そう」と言った。
人見知りの激しい、口数の少ない子供だと、芳隆は己で思う。祖母からしたら、さぞ可愛げのない子供だろうな、と。
「じゃあ、お夕飯までには戻りなさいね」
「はい」
愛想笑いの一つも出来ない自分を情けなく思って、逃げ出すように足早に玄関へ向かった。急いて動くほどに、水筒の中の氷ががらがらと騒がしく鳴った。
祖母の裏庭には東屋がある。
会った記憶のない、――母の話によれば芳隆がまだ赤ん坊の頃に会ったことがあるという、早くに亡くなった祖父が造ったものだそうだ。
家の全面に広がる庭は、日本庭園らしい、松や楓を植え、砂利を敷いた見通しの良い明るい庭園なのだが、家の裏手に広がる庭は形容するなら森だ。
樹木の枝葉がアーチのように重なる下を抜けて、枕木を辿る。外の景色や建物の姿が見えないほど塀のように植えられた木々の間を抜け、小径をしばらく歩いたその最奥に、四角い屋根の東屋が建っている。柱に絡んだ蔦が屋根にまで及んでいるが、屋根の下は綺麗に掃除されていて、落ち葉や枯草もない。東屋の中には木のテーブルと椅子が備え付けられていて、祖母は庭仕事の合間、ここから庭を眺めてお茶やお菓子を楽しむのだそうだ。
東屋まで来ると、家の中がどれだけ騒がしくても耳に届かない。庭を吹き抜ける風が枝葉を撫でる音が、何より強くここに満ちている。
年少者たちの探検は、家の表の庭に及ぶことがあっても、裏庭までは及ばない。いかにも何かが潜んでいそうな鬱蒼とした有様に小さな子ほど忌避するのだろうし、何より親たちが近づかせない。裏庭は祖母の宝だ。珍しい植物、扱いの難しい繊細な植物もある。冒険心で踏み荒らして良いような場所ではない。芳隆も母にきつく言い聞かされた上で、ここで過ごすことを許されていた。
椅子に掛けて庭を眺めながら、早速水筒の蓋を返して麦茶を注ぐ。氷で冷やされた麦茶は、一気に飲み干すと頭の奥まで響くような冷たさだ。
熱気満ちる八月の真昼。
暑いながらも祖母が手塩に掛けた庭の木々が良い遮光の役目を果たし、時折吹き抜ける風は、耳にも身体にも涼しく感じる。祖母の家に来ると、冬を除いてほとんどここに入り浸る。ここを流れる時間が芳隆には心地が良かった。
外に広がる田園の彼方から電車の走る音が聞こえて、また遠ざかっていった。
ふと気がつくと、周囲は真っ暗だった。
周囲の植物がひとかたまりの闇に見えるほどで、驚いて東屋の外に飛び出すと深い藍色の空には月が輝いていた。東屋で眠りこけて、いつの間にか夜になっていたのだ。
夕食までに戻るように言われたが、とうに時間は過ぎているだろう。しまったと思った一方で、居場所が分かっているはずなのに呼びに来てくれなかった母を恨んだ。
テーブルの上に広げたままの水筒を片付け、急ぎ家に戻ろうと思ったその時、視線の先で、白いものが揺れるのが見えた。
それは東屋のさらに奥、ただ木々が立ち並ぶその中に、月が白い光の筋を落としている。その清澄な光の舞台に躍り出るように、白いスカートが翻った。
おそるおそる近づいて木の陰から様子をうかがうと、そこには白いワンピース姿の女の子がいた。細やかな月明かりでは顔まではよく見えないが、背格好からして従兄弟たちの誰かではないだろう。彼女は楽しそうにあちらこちらへ足を弾ませながら地植えの草花を眺めている。まるで挨拶でもしているみたいに。
しばらくして、不意に顔を上げた彼女の視線が芳隆を捉えた。
「ごきげんよう」
彼女は、おそらくきっと、その顔に喜色を湛えていた。うっすらとしか判別できない表情が、芳隆にはそう感じ取れた。
彼女の言葉は明らかに自分に向けられている。返事をするのは自分の他に誰もいない。返事をしなければと思ったが、見知らぬ少女を前にした緊張から、滑らかに言葉が出てこない。
静かだった。風もほとんどなかったし、いつもはけたたましく啼く蝉がこのときばかりは押し黙っていた。
戸惑いながらやっとの事で「こんばんは」と返した。
彼女がなおのこと嬉しそうに笑みを浮かべたような気がした。
「ねえ見て、今夜は月が綺麗」
そう言って空を見上げる彼女に、芳隆は思いきって「きみは何処から来たの?」と訊ねた。顔がこちらを向いた。
「常緑の闇夜。わたしの、花園」
彼女の言葉の意味が芳隆にはまるで分からず、その意味を問い返すべきなのか、それとも自分の無知故に分からないのか、考えあぐねて黙っていると、彼女はさらに言葉を重ねた。
「このお庭が綺麗だから、遊びに来てしまったの」
「……こんな、夜更けに? お庭は昼間に見た方が良いよ。こう暗いと、何が何だか分からない」
「夜にしか咲かない花もあるわ」
彼女は月を見上げて言った。歌うように、高らかに。
「今夜はとても咲き甲斐のある夜だわ。月よ、わたしたちを照らして。あなたの輝きをこの地上に写すわたしたちを」
見上げた空の雲の切れ間に、白い月が輝いている。月の周りにうっすらと月虹が見えた。白光に霞んだ暗闇を背負う月が、いつになく神秘的なものに思えた。
「夜の女神にお礼を言わないといけないわ。わたしたちはいつだってひっそりと咲いて、誰も知らないうちに萎むんだもの」
彼女に目を落とすと、月から注ぐ光の筋の中で、白い肌もワンピースもきらきらと輝いている。受けた光を吸い込んで、彼女自身が光を放っているかのようだ。
「きみは……?」
「わたしは」
彼女の唇が、言葉を紡ぐ。月明かりの白の中で、こちらを向いて微笑んだ彼女の顔が、この目にはっきりと見えた。
「――芳隆、芳隆」
名を呼ばれ、顔を上げると、まだ日も落ちきらぬ薄闇の中にいた。東屋の屋根の下に、白い帽子を被った祖母がいる。
「もう夕食の時間ですよ。早くいらっしゃい」
「あっ、はい、今」
慌てて立ち上がる。テーブルの上に出したままになっていた麦茶を飲み干すと、じんわりと温かい。水筒を片付けて、祖母の後を追おうと立ち上がると、東屋の柱のところで、白い花が咲いているのを見た。花も葉も朝顔によく似ていて、蔓は柱を這い上って屋根の上にまで及んでいる。東屋を出て振り返ると、屋根の上でも白い花がいくつか咲いていた。
昼過ぎにここへ来た時は、白い花は咲いていなかった。
微睡みの夢の中で、似た花を見たような気がする。思い出そうにも朧気で、ぼんやりとした白色だけが脳裏に焼き付いていた。無性に花のことが気になって、先に家に向かって歩いていた祖母を追い、その背に声を掛けた。
「あの、おばあさん、東屋のところで白い花が咲いていました。昼間は咲いていなかったのに」
「夜顔ですよ。朝顔によく似た花だったでしょう。夜にだけ咲くんですよ」
「綺麗な花なのに、夜にしか咲かないんですか……」
朝顔は朝に咲くから人目に触れることは多いけれど、今頃から咲くのなら、そしてこの庭の奥では、人目に触れることもほとんどないだろう。せっかくの綺麗な花なのに勿体ない。
花からしたら、人に見られようが見られまいが関係のないことかも知れないけれど。
「芳隆」
祖母は立ち止まって、芳隆の方を振り返った。
「はい」
いつもの柔らかな笑顔と少し違う、真剣な顔つきで芳隆を見据えている。
「綺麗な花に見惚れるのはいいですが、心奪われてはいけませんよ。花の世界に迷い込んでしまうかもしれませんからね」
諭すようにそれだけ言うと、また祖母は家に向かって歩き始めていた。祖母の言う意味は分からなかったが、どこかで見た清澄な白い光が祖母の言葉と結びついて、何らかの形を成そうとしている気がした。きっと、夢の中で見たかも知れない、夜顔によく似た白色の――。
* *
死んだ祖母から届いた夜顔の種を蒔いて、二ヶ月が経った。
三つの種を蒔き、毎日朝に水やりをして無事に三株が育っている。蔓を這わせるために軒先にかけたグリーンカーテン用のネットの中程まで蔓が伸び、近頃やっと遮光として機能し始めた。
蔓を見ていると、少年の夏の日に祖母の家で過ごした記憶が徐々に蘇ってくる。芳隆は、確かにあの蔓を、あの葉を知っている。そして、咲いた花を知っていたはずだった。
あの花に関して祖母と交わした言葉は少なかったと思うが、何か、まだ、思い出せていない記憶があるような、そんな気がしてならない。
花が咲けば、思い出すこともあるだろう。
今朝、ようやく、最初の蕾を見つけた。
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