グッバイ勝ち負け
ふと、昔起こった人とのイザコザみたいなことを思い出していたら、その出来事の奥深くにあった、自分の本当の気持ちが、今見えてきた。
「ああ、私ずっと、勝とうとしてたんだ」。
仕事を共催していた相手とぶつかった時には、後で知ったことだが「自分のおかげで仕事が取れているのに」と、お互いが同じ不満を募らせていた。その時私が取った最後の手段は「自分のギャラの取り分をいかに多くするか」ということ。そのゴリ押しで関係は破綻したけど、自分の方が多くもらうことで「私は相手より優っている」というアイデンティティ、勝ちを手に入れようとしていたのだ。
幼少期には、間違っているのは妹なのに「可哀想だから」と妹ばかり庇ってこっちを見ない母に、認めて欲しくて、悔しい思いをした。いかに妹が間違ってるかと、攻撃をし続けたら、反撃していた妹が泣いてしまった。ショックだった。私は妹を泣かせたかったんじゃない。ただ母に味方になって欲しかっただけ。そのためにはやっぱり、勝つしかないと思っていた。
素直に謝れないのも、負けたくないから。
自分が悪かったとしても、認めたくない。
人の方が評価されていると、どこかモヤっとする。
いくつかの印象的な出来事、心を探ってみると、最後に出てくるのは「負ける訳にはいかない」の、強固な思い。譲らない。譲れない。そしてそんなことをし続けていたら、「強い人」というレッテルを貼られるまでになった。
どうしてそこまでして、勝たなきゃいけないと、思い込んできたんだろう。
勝つか、負けるか。
小さい頃からずっと、思えば、その戦いの中にいた。
容姿。
成績。
性格。
能力。
収入。
財産。
持ち物。
人脈。
地位。
名声。
評価。
本当に小さな頃から山ほどの「社会の価値観」という荒波に揉まれ、採点され値踏みされ、社会で快適に存在するためには勝たなければダメなんだと刷り込まれた。
幸せになるために、成功するために、勝ち続けなくてはならない。
そうしなくちゃ生き残れないと。
そりゃ必死にもなるよ。
必死に荒波に揉まれ続けて、
いっぱい撃沈もして、
ここにきてやっと、見えてきたこと。
勝つとか、
負けるとか、
そこもう、いいんじゃないのかなと。
もうそういう判断基準の世界から、すでに距離を置いている自分がいる。
勝つための努力は、ある時期までの自分にとっては活力源でもあった。
そこで意地になって必死になって、自分なりに何かを形成してきたつもり。
でももうそこで作り上げたものは終わり。
勝つか負けるかという土台の上に、私はもういないから。
勝たねばならない、と、がんじがらめになっていた時。
そこには、誰かや社会に認めて欲しい、評価されたい、そんな
「自分以外に求める承認」への多大なる要求があった。
その「自分以外に求める承認」こそが、原動力だった。
というか「自分以外に求める承認」以外の人生の目的が解らなかったとも言える。
完全な自分軸からの乖離。
でも今は逆だ。
「承認を求める相手って、自分以外に誰がいるの?」
「いません」。
そこにようやく、たどり着いたから。
外に求める時は終わった。
求めるのは正直な自分の心の声だけ。
シンプルに軽やかに。
もう勝つとか負けるとか、どうでもいいんだよ。
心の深いところでは。