知らず知らず母を責めていた、そして手を離していく
母の話は分かりづらい。
主語がないのはよくあることだけど、感情と思い込みに走るあまり客観性に欠いている。話を聞きながら私なりに筋を整理して「結局こういうことだよね」と母に話すと、最近返ってくるのが「私を責めないでくれ」という言葉。いやちょっと待って。別に責めるとかじゃなくて、客観的に私が事実と思われることを提示してるだけなんだけどな。母の中には膨大なジャッジメントがありーーこの人は良い人悪い人、好き嫌い、これは良い行為悪い行為、正しいこと間違ってることーー、かなり思い込みも強い。そして最近、自分の意に沿わないような指摘をされると「私を責めないで」という防御に走る。最初にそれを言われた時、すごく嫌な感じがしたのは「私が母を責めるような人に思われたのか」ということ。「責められた」と言う母は、自分を被害者ポジションに置くことで相手を黙らせてしまう。つまり私が加害者ってことじゃん。私が加害者? 心から心外だった。でもそうやって、母は自分を『被害者』というところに置いて生きてきたんだな、とも思った。相手を加害者にして自分を被害者にすることで、身を守ろうとしてきたんだなって。
父の死が、私には家族の関係に思いを馳せる大きなきっかけになっている。
父のこと、父の人生に思いを馳せる中、もちろん母とのことにも考えが及ぶのだけれど、そんな中でふと気づいてしまった。私はどこかで、やっぱり母を責めていたことに。
幼少期、母から「いかに父がひどいか」を聞かされて生きてきた。実際に怒鳴り声を上げたり、不機嫌さから無視をされたりと私自身「父は怖い」と体感しながら育った。それが根底にあった。でも成長して多少状況を客観視できるようになっていくと「母にも問題があったんじゃないか」と思うようになり、愚痴の多い母からも気持ちが離れていった。ずっと両親を好きとは思えなかった。死んでも悲しくないだろうなと思ってさえいた。
父の最期が近づいているかもしれない、と感じ始めた頃、こんなことを考えていた。
『父について語る時、最初に出てくるのが『怖い』という単語。幼少期に父から受けた恐怖心が多々あったことが大人になっても生きづらさという形で出て来て、どうしてもそこに立ち戻ってしまう。
先日もまた、そこに気づいた際。「私これいつまでやってんの?」という心の声が聞こえた気がした。いつまで『親に傷つけられて可哀想だった私ポジション』にいるのかなって。』
こんな風に、私自身「加害者=父、被害者=私」という図式に自分を当てはめていたけれど、父への思いが氷解されはじめたら、次はそれが母に向かったような気がする。
常々、母は怒りっぽい父のことを怖れていた。確かに、ちょっとしたことで父はすぐに怒り音を出す。けれど、二人のやり取りを見ていると、母自身、父を怒らせるような言い方をしていることにも気づく。「何でそこでそれ言っちゃうのかな」「どうしてそういう言い方しちゃうんだろう」。母の行為に対し「何で?」「どうして?」と思う時。そこに非難はなかったか。どうしてもっと上手くやれないの? どうしてもっと客観的になれないの? どうして、どうして? その先には、「どうして私や世間が思うような、一般的に良しとされているような、大人の対応ができる母じゃないの?」という、母を責める気持ちが。
私が両親を思う時に出てきた「どうして」の先には、「どうして私の両親は、私の思うような理想の親じゃないんだろう」の思いがあった。きっと私は両親に、自分の理想であって欲しかった。世間に恥ずかしくないような親であること、根底ではそれを望んでいた。けれど。両親からは「親の理想のような子供になって欲しい」と言われたことも、そんな風に思わされたことも、一度もなかった。なかったのに。
私はずーっと、心の中で、奥の深いところで、親を責めていた。でも責めてるつもりは、全くなかった。親だってきっと、仲を悪くしようとしてそうなった訳じゃないだろうし、子どもの心に傷を負わせている気持ちなんて、全くなかったはずだ。みんなそれぞれ、その時々の自分が、本当に思ったことを、その時の勢いで、やってきただけ。思ってきただけだった。感情をコントロールできず、傷ついたり傷つけたり、悲しんだり苦しんだりもしながら、でもやっぱりみんな、状況を良くしたいと思って、やってきたことなんだ。
これは、誰が悪くて誰が正しいとか、そういった話じゃない。犯人探しでもない、過去をなかったことにするでもなく、書き換えるのでもなく、ただそういうことだったんじゃないか、という私の気づきの話、私が私を知るための話。
私は人に責められたくないし、人を責めることもしたくない。してるつもりもなかった。でもしていた。
今からでもごめんなさい。ごめんなさい。
自分がされて嫌なこと、誰にだってしたくなかった。
そしたら今、気がついたところから。無理に何かを変えるでなく、ただ自分はそういう観念を持っていると、気づいたところから。私は変わる。勝手に変わる。
だってもう知ってしまった、私が握りしめて話そうとしなかった、思いの存在を、握りしめているのに気がついたから、やっとそれ握ってなくていいんだよ、って言える。
もう離していいよ。離していいんだよ。
手放したらその手で、次は何ができるのだろうか。