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顔色を伺う病

 前の記事で「人にどう思われるかこわい」という思いがあることを書いた。

 そしてもうひとつ、思い出したこと。それは「相手が今、どう思っているのか」という顔色を読む癖のようなものがあったこと。昔会社勤めをしていた際、人に何か聞かれた時「何て答えて欲しいんだろう」と表情を読み取って「言って欲しそうなことを言わなくては」と必死だったことを覚えている。誰に対してもそうだったわけではない。おそらく「上」の人に対して、それが発動していたように思う。
 先日のとある出来事から、そのことを思い出した。
 それは、私の用事で、夫と二人初めての場所に荷物を取りに行くことになった時のこと。マップを頼りに大体の場所には着いているはずなんだけど、差し示される道は狭くそれらしい建物もない。スムーズに行かなそうだな……と感じた時点で、焦る。とりあえず降りて、会社のようなところで人に聞いて(とても親切な方でした)、マップのリンクがちょっと違っていたことがわかり移動。多分、大体、こっち……あ、逆だった。こっちかな……この辺のはずなんだけど。焦る。焦る。焦る。
「あった!」
 小さな案内表示を見つけた際の、あの、ものすごい安堵感。無事荷物をピックアップして、心底安堵した。そして思った。
「私、なんであそこまで焦ってたんだろう?」
 その焦りはもう恐怖に近く、最近感じたことのないレベルだった。夫との関係が緊張状態にあるわけでは全くなく、だからこそどうしてだろう? と、思いを馳せたら思い出した。

 ああ。父だ。

 子どもの頃の父親の印象といえば、一番に出てくるのは「こわい」。幼少期、両親はよく喧嘩をしていた。夜、その怒鳴り声や泣き声で目を覚ましたこと。父は不機嫌だったことが多く(もともと口数が多い方ではないけど)、小さな子どもの私が言ったことに対して怒り口調で答えたり、無視したり、時に怒鳴られるようなこともあった。粗相をしたわけでもないのに。だから、夜、父の様子を伺って、酔ってにこにこ楽しそうにしていると心からホッとした。父との関係はいつも緊張を伴った。

 そんな経験から「相手が今、どう思っているのか」読み取ろうとするのは、私にとっては身を守るために必要なことだったのだと思う。そして、怒らせないように、怒らせないようにと顔色を伺ってびくびくしてしまうのは、ほぼ男性を相手にしてのことなのだった。そう、私は今でもどこか、男性に対して「こわい」という意識がある。日常生活に障りがあるほどではないけれど。

 このトラウマに気づいたのはけっこう前のことだったので、まだ自分の中に残っていたのか!と、驚いた。手放した気分になっていたけど、手放しました、消えました、はい、おしまい。という種類のものではないのかもしれない。

 今思えば、当時の父が私にしたことーー小さな子どもに対し、他愛もない話に対して怒鳴り口調で返す、無視をする、などーーは、親として、というか人としても最低な行為だと思う。相手はまだ子どもなのに。にも関わらず、小さな私はそれを、自分の負い目にしてしまう。「私のせいだ」と。私はそうだった。そして思う。当の父は、まさか子どもが長きに渡ってこんなに傷を負ってるなんて、夢にも思ってないのだろうなと。

 当時の父が何を考えていたかなんてわからない。でもまぁ、もう全方向において余裕がなかったんだろうなと思う、子ども相手に大人気なく怒鳴り声を出してしまうほどに。
 ひどいな、と思う。けど、これが私の体験で、それ以上でもそれ以下でもないのであった。

 ちょっと前に読んだ宇野千代さんの自伝のような小説の中で、かなり独裁的な父親の姿が描かれていた。家族はかなり厳しい目に遭っているんだけど「これがうちだから」と、他の家庭の優しい父親の話も「よそのうちのこと」「うちのことではない」と宇野千代さんは子どもの頃から達観していた。そして、自分は不幸だったことはない、と。「不幸は、不幸と思うから不幸なのであって、自分がそう思っていなければ何も不幸はことはない」というようなことも書かれていた。凄い。

 私はそこまで達観してないし、「こんな家の子じゃなかったら、どんな人生だったんだろう」みたいなことを考えたこともあったと思う。恐怖もあったし、その後は無関心になり、自分を見ていく中で怒りも憎しみも悲しみも出てきた。トラウマだってある。
 でもってそれ、全部ひっくるめて「私」なのだろうな。私の一部。
 だから何というか、よかった悪かったではなく「昔こんなことがあった」ということなんだろう。

 昔そんなことがあったから、成長過程で顔色を伺う病を発症している、無意識に人がどう思ってるのか気にしている、怒らせてはいないかと胸が詰まる。でも今の私は、前出の場面で夫に対し「あなたが不機嫌になることが恐怖なんだ」と本人に言うことができる、八つ当たりもしたりする、真剣に、笑いを交えて、それができるくらいに成長している。自分を知っている。

 病は治すものだと思っていた、根絶すべきものだと。でもそういう種類のものじゃないようにも思う、だってそれも私という形をきれいに、いびつにしてくれるものだから。

 美しいものは、どこかいびつさがあると思う。
 ゆがんでないものなんて、面白くないと思う。

 だから別に、治さなくていい。

 自分はそういう質なんだと知った上で、共に生きることにする。

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