自分で立つ
母は子供と出かけるのが好きだ。でも私は、母に「どこどこに行こう」と誘われるとげんなりしてしまう。気が重い。何でだろう?一緒に出かけてしまえば、それなりに楽しい。一応娘として、母の望みを叶えてあげてるという満足みたいなものもある。
でも、思う。
重いのは、母の「思い」が重い、からじゃないかと。
「いつならいいんだ」「どこならいいんだ」。1回どこかに行けばまたすぐに「次はどこに行こう」という話になる。いつにする、どこにする、その圧に、疲れる。そう、この母の「会おう会おう」攻撃。それが私の力を奪う。
書いていて気がついた。
母が嫌な訳ではなく、時に執拗とも思える「会おう会おう」攻撃に、うんざりするのだ。
先日、ある誘いを〜私としてはかなり思い切って〜断ったら、ものすごく分かりやすく消沈していた。その負のオーラみたいなものに、こっちまで具合が悪くなるんじゃないかというくらい。さらには、また別の誘いに曖昧な返事をすると、今度はどこか命令口調になって、威圧感さえ感じさせる、当然、うんざりする。
自分の思い通りにならないことが、許せないのだろう。
「人に自分の思うような反応をして欲しい」そういう気持ち、私も過去にはあったから、理解はできる。
思うようにならないことに、辛くなったり苦しくなったり。時に怒りさえ感じたりもした。けれど、いろいろな気づきを経て、当たり前だけど「人は人、自分は自分」に着地する。人の問題と自分の問題を混同しない、というのか。
「人の反応がどうあれ、私はこう思っている」
「私はこう思っているけど、人がどう反応するかはその人の自由」
ただ、そういうことでしかない。そして、
「相手が自分の思うように反応してくれないということは、裏切りでも何でもなく、勝ち負けでもなく、単純にただの「違い」に過ぎない」
ということ。
自分の意見が受け入れられない時、がっかりしたり悲しい思いが出てくるのは当たり前の反応だと思う。でもそこで「残念だな」で、さくっと終わるのではなく、激しく落ち込んだり悲しんだり、下手すると相手を恨んだり、怒りを覚えたりするような状態だったら、それはそこに何か別の要因があるように思う。
私は昔、自分の意見が通らなかったり、断られたりすると、精神的にけっこうなダメージを受けていた。それは、勝手に「自分が否定された」という気分になっていたから。私自身が、受け入れられないんだって。
落ち込んだり、
恥ずかしい気持ちになったり、
道化のようになったり、
「何で?」と怒りを覚えたり、
悲しくなったり、
強気になったり、
さまざまに心が揺れた。
こんな風に感情を重ねて心が乱れるのは、きっと、自分の存在を人に認めて欲しかったから。
私の意見を聞いて、
私はここにいるよ、
視界に入れて欲しい、
私も一員にして欲しい、
私を見て欲しい。
気づかれたい、
優遇されたい、
大事にされたい、
特別扱いされたい、
つまり、愛して欲しい。
自分は誰からも必要とされてないんじゃないか、愛されてないんじゃないか、という欠乏感。それがどーん、と、存在していた。今ならそう思う。
その、欠乏感の海から、どうやって脱出したのか。
それは一旦、冷静になること。
「人の反応がどうあれ、私はこう思っている」
「私はこう思っているけど、人がどう反応するかはその人の自由」
「相手が自分の思うように反応してくれないということは、裏切りでも何でもなく、勝ち負けでもなく、単純にただの「違い」に過ぎない」
そこに疑心暗鬼になって、感情を重ねて不安になる必要、実は全くなかったってこと。これは自分が、勝手にやってる不安プレイだったって。
人が自分の思うように動かない、それはただ単に考え方が違うだけ。
自分を損ねるものではない。
存在を否定されるものではない。
同じことを同じようにいいと思えなくても、ある意味それは当たり前。
人は人、自分は自分。
自分の幸福を、人に委ねないこと。
自分の不幸を、人にどうにかしてもらおうとしないこと。
母の「会おう会おう」攻撃、それが私の力を奪うように感じたけど、文字通りきっとエネルギーを奪われていたのだ。母自身の幸福のために。でも子供は、母親の幸福の担い手ではない。
幸福の担い手、それは各自、自分自身で、全うするしかない。
それを他者に求め続ける限り、心からの幸福は、難しいと私は思う。
人が自分の思い通りの反応をすることは、たまたまあるかもしれないけど、ないことだってあって当然。どっちかなんてわからない。
そんな不確実なものに、自分の幸福委ねるな。
自分の幸福をコントロールできるのは、自分だけ。
だから全ての人がやるべきことは、自分の幸福に責任を持つことなんじゃないかと思っている。
人に構ってる場合じゃない。
自分の幸福に、各自責任を持つ。
それが自立ってことじゃないの。
自立なしに、幸福はありえないんだ。
幸福を与え合う、循環する関係と、幸福を人に委ねる、奪う関係は全然違う。
互いが、互いの幸福を確保した状態で関わり合えば、相乗効果が生まれる。
一方通行にはいつか、破綻がくる。
だから、私も、もっともっと、もっともっと
自分の幸福に、責任を持って生きよう。
人に構ってる場合じゃない。
たとえいくら近い間柄だとしても、自分以外はみんな、他人なんだから。
まずは自分の幸福に、各自が責任を持つ、それが自立ということ。
自立なしに心からの幸福は、ありえない。
私はそう思う。
だから私も、人の責任負うのは
やめよう。
自分の力で立つ、世の中の一員であろう。
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