肉親=盲目的に大事にしなきゃない関係、の時代は終わった。
実家家族とのつき合いって、私にとっては長く鬼門だった。
肉親だから愛着もあるけど、かといって気持ちよく過ごせるか、というとそうでもなく。自分不在でいろいろあれば寂しくもあるくせに、時にすごく面倒臭い存在でもある。好きなのか嫌いなのか、自分でもどっちやねん、と持て余すこの感じ。でもこういう矛盾にまみれたものこそ家族なのかも、なんてことも思うけど。
先日の帰省で、今まで我慢してたことに(ぐだぐだながらも)やっと「ノー」と言えたこと。今までどこか批判的にしか見てなかった家族の中に「優しさ」を感じて、心がほどけたように思えたこと。
変な自己犠牲から、義務感から、ジャッジメントから離れて。
何か、家族に対する思いが、軽くなったような。そんな感覚があった。
そう、最近、珍しい家族の帰省がちょうど私不在のタイミングであることがわかって。残念なんだけど、そういうことなのかな、という気もしている。その予兆はしばらく前からあった。
その日だけダメ、なその日に誘われたり。行く予定が濃厚接触の関係で、延期になったり。その日に限って、すれ違いで会えなかったり。
思えば、実家家族との間でここ最近ではこんなパターンが続いている。
なんかもう、これは、こういうことなんだろう。
肉親=盲目的に大事にしなきゃない関係、の時代は終わった。
大事にしなくていい、とか、そういう話ではない。
ただ、どう考えても噛み合わないものを「血縁」という縛りにがんじがらめになって、コントロールしたりされたりして、思うことも言えず、自由もなく、気持ちよくつき合うこともできない関係なら、もう義務感に囚われる必要はまったくないんじゃないか。
少なくとも私は、そう思っているよ。
私は、ただ単に、人とは気持ちよくつき合っていきたいんだ。
そこに、属性みたいなものは、まったく関係ないってこと。
裏付けるかのように、今週は急遽当日のタイミングで、もともと用事あって連絡しなきゃと思っていた友2人に、立て続けに会うことができた。
メールでの連絡なんかもスピーディーで、こういうやり取りひとつを取っても「ああもう繋がるべきところとはさくさく繋がるなぁ」ということを実感している。
考えて、考えて、考えを重ねて悩む時代は終わった。
顔色伺ったり根回ししたり、遣わなくていい気を遣って、疲弊するようなことも。
ふと閃いて、気づいたら体が勝手に動いてる、これくらいの感じ。
逆に、それくらいに流れが起きてないことは、放置してていい。
無理してどうこうしなくても、あとは勝手にうまくいくように流れている。
時代は確かに、少しずつ変わっていっている。
だからこの新しい風を受け入れていこう。
肉親=盲目的に大事にしなきゃない関係、の時代は終わった。
私は、ただ単に、人とは気持ちよくつき合っていきたいんだ。
そこに、属性みたいなものは、まったく関係ないってこと。
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