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可哀想じゃない私

 父について語る時、最初に出てくるのが『怖い』という単語。幼少期に父から受けた恐怖心が多々あったことが大人になっても生きづらさという形で出て来て、どうしてもそこに立ち戻ってしまう。
 先日もまた、そこに気づいた際。「私これいつまでやってんの?」という心の声が聞こえた気がした。いつまで『親に傷つけられて可哀想だった私ポジション』にいるのかなって。こんなことを感じるということは、ようやく「もうここは離れていいだろう」というタイミングが来たのかもしれない。

 両親に対する微妙な思い。幼少期やら思春期などのあれやこれやで、親のことを好きとは思えなくなっていたこと、親から愛されていると一度も感じたことがなかったこと。でもそれを、自分なりに自分の感情を認めて向き合うことで、手放しを試みてきたこと。思いが軽くなっていったこと。

 そんなことを経て、先日、父との関係を思った時に「暴力的だった部分ばかり思い出してしまうけど、本当はそうじゃないところだっていっぱいあったはずなのに」と、父の「良かった」部分を思い出そうとしてみた。けれど、何かおかしいと気づく。
「良いところがあるから人を評価する」的なアプローチが、全然違うんじゃないかって。

 父はただ、父、その人で。
 母もまた、母、その人で。

 誰もが皆、その人それぞれの人生を、一生懸命生きている。

 私がそれを『良い悪い』という時には、その時々の親の態度や行動が私にとって『好ましい、望ましい、理想的、世間に向けて顔向けできる』ようなことであったかどうかの個人的なジャッジに過ぎない。つまり私の眼鏡に敵えば、親を評価するし好きになるし許すとか認めるよ、って、実はものすごく傲慢なことじゃないか。たとえ相手が誰であったとしても。

 その人はただ、その人で。

 私にとってはおかしいと思えることも「その人はそう思うんだな」でしかなく、私からしたら異質と思うような行動や言動も、その時その人なりの『必死』でしかない。

 私は誰からも、虐げられたりしなかった。
 誰からも搾取されず、暴力も受けず、無視されたりもしなかった。

 大事にされていた。
 尊重されていた。
 愛されていた。

 きっと真実はそれでしかない。

 この世で起きていることは、きっと、全部、そういうこと。

 現実に起きていることは同じでも、自分がどの角度から物事を捉えて、どの角度から見ようとするかで、受け取り方はまるで変わっていく。

 私の世界には、私をはじめ、可哀想な人なんていない。

 誰もがその時々の、一生懸命をやり合っている。

 その中には衝突もある、痛みもあるけれど、共感や共鳴、喜びも嬉しさも、何でもある。

 私たちは全部体験している。

 そういうことをやりたくてやっている。

 私可哀想な人じゃなかったし、あなたも可哀想な人じゃなかったよ。

 私はもう、そこにはいない。一方だけを見て、ジャッジして、心を閉じ込めてしまうようなところには。

 もっと全部を見渡せるところから全部を見る、目に見えるところも見えないところも。
 その全部を、見渡していたい。見落としたくない。

 きっとそれが、人生を堪能するってことじゃないかなんて思っている。

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