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『誰かのせいで不幸な私』に溺れる私

 今朝ちょっとしたことから夫に怒りを炸裂させた、原因は私の収納スペースに夫の私物が侵食していること(前からよくある・言ってる)、そこから過去を思い出したら感情が止まらなくなった、結婚当初にいろいろ言われたやられたあれこれ、ひととおり吐き出してつき物が落ちる。
 最初の怒りを皮切りに出てくる過去の怒りや恨み、なんかもう残り滓みたいなもの、でもそんな滓はまだ私の中にあるんだな。

 そして夫に対して怒りを吐き出した後に思った。
 私は『誰かのせいで不幸な私』という立ち位置に溺れているんじゃないかということ。足元をすくわれている流されている、と同時に、耽溺もしているんじゃないか、『誰かのせいで不幸な私』この状態が私にとって何か甘露のようなものなんじゃないかということを。

 「人のせいにすることで、自分と向き合うことから逃げている」そんな言い方もよく見聞きする、そういう要素もあるのかも、今は心に響かないけど、とにかく理由なんてどうでもいいけど、率直に今思うことは。

『誰かのせいで不幸な私』に、溺れたままでいるのは嫌だな。ということ。

 先日書いた記事

 夫に対して出てきた感情の源は幼少期の父親に対する恐怖心から、というようなことを書いたけれど、その後、出てきた思い。

「私はいつまで『小さい頃の親からのトラウマで困難を抱えている大人』を続けるつもりなのか」

 ということ。その思いが私をいつまでも被害者のようにしている、親をいつまでも加害者のようにしている、確かに色々感じた場面があったことは事実、だけどいつまでそこに留まるのかを決めるのは多分自分。

 私もうそこにいたくない。

 というか、いる必要がもう、というかやっと、なくなったのかもしれない。

 これが『手放す』ということなのか? とにかく私は溺れるのはやめることにした。

 ちゃんと泳ごう。自分で舵を取ろう。

 私の人生は、私のものだからな。

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