それが今の正直な私
先日、義理の親戚という人とある場面で会い、オフィシャルな場で数回会ったところで「今度家に遊びに行っていいですか?」と言われ、心底びっくりした。私の中にはまったくない発想だったから。
まず、ほとんど初対面にあたる人の「家に行く」という発想がない。
そして、親戚付き合いは面倒なのものだと思ってる(特に義理の関係って…)。
さらに、自宅に人を招くこと自体、得意ではないというか。
そんなこんなで、動揺しながらはっきりとした返事をせずにお茶を濁してしまった。
そう、そこの叔母さんとは私もそれなりに面識もあり、そういったところからの発想だったのだろうとも思う。
でも親亡き今、正直積極的に付き合いたい間柄ではない。別に嫌な人だからとかではなく、私にとって親戚というのはただ面倒なだけなのだ。
きっと私の中の「親戚全般に対する苦手意識」によるところが、大きいのだろうと思う。
思えば、幼少期には母からずっと「親戚の悪口」を聞かされてきた。
父方はもちろん、母方の親戚に関しても、覚えているのはネガティブな噂話ばかり。そんなことから「親戚というのは嫌なもの、面倒臭いもの」と、刷り込まれちゃったんだろうと思う。
一人っ子の父と遠方から嫁いだ母だったので、近しい親戚が近隣にいなかったことも、親戚をいいものと思えない一因のような気がする。
だから、逆に言えば「今度家に遊びに行っていいですか?」と言える人は、きっと親戚付き合いにいい思い出があるのだろうな。そう、夫方の親戚は近くに住む人も多く、交流もけっこうあったようだから。
こういうのってほんと「違い」でしかない。
親戚付き合いに苦手意識を持つような環境で育った私。
親戚付き合いはあって当然、みたいな環境で育った誰か。
昔の私は、そんな自分は矯正しなきゃないものだと思っていた。結婚したからには、夫の家族とも親戚とも、仲良くしなきゃないんだって。
それは、ある意味、相手の思うような嫁になること。そういうことをしなくちゃ、と無理していた時代もあった。でもそんなこと重ねていくうちに自分が壊れそうになった。
だから私は私を、矯正したんだ。
相手の形に合わせる矯正ではなく、本来の自分の形に、戻す矯正を。
相手の形に合わせようとしていた私は、可愛かったろうけど、自分の形に戻ろうとした私は、可愛げなかったろう。
嫌われた部分もあったろうけど、でも私は誰かの機嫌を取るために、人生費やしたくはない。
もうそんなことはしないのだ。
だから、よく知らない親戚に、その人個人に興味を持てないうちに、親戚だからという理由だけで付き合いたいとは思えない。
それが今の、正直な私。
人付き合いは難しい。
時に面倒臭い。
でもこの面倒臭い、がなくなったら、人間じゃないような気もする。
とはいえ、件の親戚に次に会うことがあったら、この件に関しては深追いしないで欲しい(つまり家に来る話はなかったことに)と願ってやまない。
それが今の、正直な私なんだよな。
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