【多世界並行現実2】2006年の体験記録
前回は行き詰まりにて終わり、
今回もまた書けるところまで 書いてゆきたいと思います。
それにしても、
こういう類のお話は、映画や本の中ではとても刺激的で楽しめ聞けるものですが、
・・・・・
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体験話として書くには やはり難しいですね。
前回の続きに入りたいと思います。
これもまた いち個人の体験を元にした話です。
なので、みなさんの自由な発想でどうぞお読みください。
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現実とはひとつではなく、
それと平行して実にたくさん存在しているもの。
そして私達は
「この瞬間瞬間の選択によってどこに位置するかを自らが選択している」。
しかしそうなると「記憶」というものはどうなってしまうのか?。
異なる現実に移動しているというならば、
その現実現実の営みというものが 存在しているのではなかろうか???。
でも「私」の記憶は・・・確かに一定して存在しているぞ???。
証拠だって・・・
過去の写真や他の人の記憶だってきちんとあるぞ???。
そんな疑問もでてきます。
・・・ここでひとつ
いくつか言葉を投げかけさせていただきたいと思います。
「その・・
自分で認識している記憶とは
絶対的なものと断言できるのでしょうか?」
「絶対的というのであれば
それをどこで証明するのでしょうか?」
それ(記憶)は
人に確認したり、
写真や、
そうした過去の足跡によって証明が得られたとて・・・
絶対的な 確かなものでしょうか?。
それは絶対な確証性を もっているものなのでしょうか???。
・・・・・・・
これはあくまでも私が体験した中で 得たものですが、
・・・・・・・
・・・・・・
・・・・・
・・・
まことに信じ難く、言い難いことですが・・・、
存在する現実が変わった瞬間・・・・・
記憶もすべて摩り替わっているんです。
正確な表現をすれば」また少し書き方が変わるのですが・・・・・
今はこれ以上の書き方が・・・ごめんなさい、見つかりません。
もうひとつ 言い方を変えるならば
「過去」は自分がそれを受け入れた瞬間
「影響」 という効力をもちます。
そもそもが
「過去←」「今」「未来→」
と一直線で存在していると認知しているのは 大きな錯覚。
「過去」や「未来」がひとつと認知しているのも 大きな錯覚。
それらは常に、摩り替わって(変動して)いるんです。
とてつもなく巧妙で精密な形で。
とはいえ、あまりに異なるような別現実には
通常行かないようにもなっているんですね。
・・・・行くのが困難・・ともいうべきでしょうか。
「別の現実へいっている」などと書くと
まるで今とは全く異なる現実へ移動するかのようなイメージを与えてしまいますが、それは違うのです。
ほぼ同じような現実を移動しています。
それはとても精密にできているため、
その違いに気づくことすら難しいでしょう。
多次元世界といっても、
映画や漫画のようなパフォーマンス性はないのです。
「此処はどこだ!?」
なんてすぐわかるような場所へ移動しているわけでは ないんですね。
ちなみに
もし仮に これらのことを自らが常に意識できてしまった場合、
通常の私達の意識では
ひどい記憶混乱と精神散乱に襲われてしまうことでしょう。
すべてを認識してしまったら、
生活などとてもじゃないけれど
行えなくなるのが現状かと思います。
それを見通してかどうなのか、
重力という重圧を受けている通常の私達の肉体を持つ意識では、
点部分(同時並行で多数存在している)において、
ひとつの点(一箇所の現実)しか認識することができないように仕組まれています。
それでも、移動幅が通常より大きく行われた場合は
多少なりとも 微かな感覚を与えてきます。
その感覚とは、
今までなんてことなく行っていた日常の営みに対して
なんとなしに違和感を感じる。
ここ最近、異様に眠い
というものが当てはまるかと思います。
(注/こうしたことすべてが当てはまるとは限りません)
しかし自分を見てもわかるように、
今までなんてことなく行っていた日常の営みに対して 妙な違和感を感じる。
異様に眠い
というのはそう頻繁に、日常的には行われません。
つまり、私達はそうそう大幅な現実移動をしないものなのです。
ほぼ似たり寄ったりの場所を 行き来している程度です。
ただこれは・・・・・人の状態によります。
というのも、別次元の現実移動には
その人の意識、心の軽さが 大きく関わってくるからです。
制限が多い心の人ほど移動は少なく、
制限がより少ない心の人ほど・・・自由な意識・軽い心で在るほどに
現実移動の幅は 大きくなるのです。
そしてこれは、
実はものすごく ものすごく大事な 重要なポイントなのです
つづく
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