「あったること物語」 1 ドレスを着た人
おかえり
よう来んさったね
さぁ みんな
ここにおいで
お話をしてあげる
本当に あったることと思って
聞いてちょうだいね
ドレスを着た人
ドレス姿と言ったら、どんな様子を思い浮かべますか?
きらめく宝石、羽衣のような軽いヴェール。
華奢なフリルに、金糸銀糸に彩られた裾まで長く引く絹のローブ。
童話や映像世界で、お姫様が身にまとっているものです。
けれど、幼い頃、私が生まれて初めて見たドレス姿とはそんなものではありませんでした。
こんにちは、初めまして。私は、安寿と言います。みんなは、「あんちゃん」と呼びます。
九州の片田舎に生まれ育ちました。
家族は、父と母、祖父母に、姉が一人の六人家族。そして私のことを、手のかかる子分だと信じている白いメスの雑種犬が一匹。
みんなで、ひいお祖父さんが建てたという、古い日本家屋で暮らしていました。
庭は広くて、ぐるりをお茶の木や雑木林で囲まれており、いつも なにかしらの季節の花がほころんでいます。
家庭菜園や、果物の実る木が沢山植えられている庭は、ジャングルで遊ぶ子猿のような私を いつも すっぽりと隠してくれたものです。
田んぼに囲まれた田舎の中の、さらなる ど田舎。そこが私いるべき場所。
遊び相手になるような子供も見かけたことがなくて、もっぱら、春にはモンシロチョウやアゲハチョウたちと競うように レンゲの蜜を奪い合い、バッタと一緒に飛び跳ねて過ごしたのです。
家族と私、田んぼに畑、なじみの虫たちに、お節介で 大好きな犬、小鳥、胸が苦しくなるような青い草の匂い。とりどりのお花……。
それらが世界の全てで、家の外へと続く小道の先は、出てはいけない人さらいのいる異世界。
「あんた、だれかににさらって行かるっよっ!」
よちよちと小道に出ようとする私を母はいつも後ろからそう言って呼び止めます。
そんな私が物心ついたころです。
うちの家の中に 家族の他にもう一人、誰かがいることに気づきました。
その人は、広くて薄暗い玄関を入って正面、少し左より。
まるで吊り下げられた人形のようにして、そこに立っていました。
ぼろぼろに擦り切れた、垢だらけの 汚いドレスを身にまとって、軽く 結い上げた髪の毛も、もつれてぼさぼさ。
顔色は灰色、体も小さくて、骨と皮のように痩せています。
それが、私が 生まれて初めて見た ドレス姿の女の人でした。
しかも、テレビの中でしか見たことのない、白人の女性だったのです。
その人は、いつもそこに立っていました。
朝も夕も、まるでその場に 糊で貼り付けられたようにです。
私の家族は、その人に「ただいま」とか、「行ってきます」とか、誰も挨拶をしません。
なので私もそれに習って、まるでいないように振る舞っていました。
そんな中、なんとなく気付いたのですが、その人は 目を伏せて 家族の誰とも視線を合わせないのに、私の目はじっと見るのです。
ためしに玄関へ入ってすぐ、右に歩いたり、左に飛びのいてみたりしてみました。案の定、その人の目玉は、じっとりと私を追いかけてきます。
「安寿がまた、変なことしてる」
年齢の離れた姉が呆れて言いました。と言うことは、姉にも あの人は見えていないのです。
姉の名前は 優。優しいと言うよりは、成績の良い、優等生の『優』でした。
家族の誰かが一緒にいてくれる時は、長い時間を玄関で過ごしても安心なのです。けれど ひとりの時は違います。
ひとり玄関を通る時は、いつも目を伏せ、私は小走りにそこを走り抜けるようになりました。
泥の中を引きずり回されたような、引きちぎられたエプロン。棒きれのような足が見えている破れた長スカート。そしてギロギロした目玉を見るのが怖かったのです。
こちらを見つめる、びっしりとカビの生えたような、あの目……。
それから時はたって、幼稚園という所へ入園するのだと 両親に言われました。
幼稚園とは、家を出た先の異世界に存在していて、姉も昔 世話になったところだそうです。
子供がたくさんいて、そこでの主な仕事は、友達を作りながら、午後まで時間を潰して、親をゆっくりさせてあげることだそうでした。子供心にそう理解していました。
入園の日、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。
世の中に、こんなに たくさんの子供らが存在するなんて、全く知りませんでした。しかも、全員 同い年らしいのです。
これだけの数の子供を、いったいどこの庭や畑に隠していたのか、不思議で声も出ません。
すると、私の一つ前の席の女の子が、くるりとこちらを向いて言い放ちました。
「あんじゅって、へーんな名前! あんじゅじゃなくて、まーーんじゅう‼
意地悪そうな顔で言うので、悲しくなりました。
けど、私と同い年なのに、なかなか上手い 語呂合わせを言うなとも感心しました。
意地悪な彼女に習って、その子の名前をもじった悪口を言い返してやろうと頭をひねってみたけれど、そんなにとっさには出てきません。
意地悪な子の隣に座っていた、同じ 意地悪な顔をした彼女の母親が、 私のことを ねめつけていたのも原因のひとつだったかもしれません。
「我慢しなさい。あんたさえ我慢してれば、何事も無く、丸く収まるの。我慢していなさい。」
それら全てを横で見ていたうちの母親は家に帰ると、そう言って諭しました。
当時、同居していた祖父母は、近所でも噂に上るほどのキツイ性格で、嫁の母は苦労しているようでした。 母はまるで、同じ言葉で 自分自身に呪文をかけているようにも見えました。
けれど、おじいちゃんとおばあちゃんは孫の私には甘かったので、大好きでした。
幼稚園のひとつ前の席の意地悪な女の子の話を言いつけると、それはそれは 腹を立てて、私の話を聞いてくれるのでした。美味しい和菓子もくれました。
幼稚園では仲の良い子も見つかりましたが、先に出てきた子供を始め、乱暴な子や意地悪を仕掛ける子供も沢山いて、だんだん通うのが辛くなってきました。
不登校ならぬ不登園です。
しかし、真面目な両親は 毎日通わせ続けました。楽しいこともあったけど、重い鉛が心に溜まっていく自分をどうすることも出来ません。
「ただいま……。」
玄関先のぼろぼろのドレスの女の人は毎日同じ場所に立っていて、私の目を見つめてきます。
ある日、濁った灰色の目玉の中に、わずかな感情の光が差した気がしました。
『同情されている……。』
幼心にそう感じました。そう思ったら、もう我慢出来ません。
玄関に立ち続ける人に 怖さも忘れて 幼稚園で起きた出来事や、もう辛くて通いたくないことなどを切々と訴えました。
訴えると言っても玄関先で声を上げてしゃべるのではありません。心の中で話すのです。
話すというよりは、叫びに近かったかもしれません。 不思議だと思ったのですが、その人と自分はどこかで繋がっている気がしました。
言葉に出さなくても、声をあげて 泣いたりわめいたりしなくても、私の言葉や気持ちが分かるようなのです。家族の誰にも訴えられない悲しい気持ちを彼女は飲み込んでいきました。
彼女の目に 生気が宿ったように感じました。
そして動けないはずの彼女が、私の後ろをついて歩くようになったのです。
家の中だけなのですが、特に独りでいる時、私の背後に立っているのが分かるようになりました。
しばらく経つと、今度はゆっくりとした口調で 話しかけてくるようになりました。
外国人のしゃべる言葉がなぜ自分に理解出来たのか、当時は気にも留めていませんでしたし、彼女のしゃべる内容は 正直さっぱり分かりませんでした。
遠くの方から聞こえるくぐもったラジオの音を、一生懸命 注意を向けて聞いてあげる作業が必要だったのです。
それは子供の自分にはなかなか難しく、アニメの再放送の時間になったり、おやつの時間になったりすると すぐに集中が途切れてしまいます。
ただ、彼女も 私と同じように、辛い目にあったり いじめられた悲しい思いを抱えているのを感じました。
この人も可哀想なひとなんだと、同情しました。
ドレスの人の話は十分に理解は出来ませんでしたが、それはひどいもののようでした。
最初は、私の幼稚園の愚痴を交互に混ぜて伝え合っていたのですが、すぐに 一方的に彼女がしゃべり出すようになり、私はただ聴く側にまわされ始めました。
彼女は自分の記憶の中にあるらしい映像を私の心の中に見せながら、泣いたり叫んだりし始めました。
その状況は、幼稚園児の理解と我慢の限界をすぐに超えました。
話を聞くのが嫌になったのです。
なので私は、彼女の見せてくれる映像を 絵に描くことにしました。
絵を描くのは好きだったし、私に絵を描かせることに集中すると、ドレスの人も 少し落ち着いて話をしてくるように思えました。
場所は広いお座敷、お仏壇からお線香の香りが漂うところです。そこに落書き帳を持ち込んで、一生懸命書きました。
静かな時間でした。
ドレスのひとが後ろに立って、骨の浮いた灰色の指で、こうじゃない、ああじゃないと指示するのが分かりました。
彼女に言われるがまま描きましたが、自分がなにを描いているのかはさっぱり理解していませんでした。
出来上がったものは、十枚以上とかなりの枚数に仕上がり、集中力の続かない幼稚園児にしては大作だと思って、嬉しくなってきました。
頑張って描いたこの作品を誰かに自慢しなくちゃ!
無邪気にそう思った私は、落書き帳をひっつかんで茶の間へ駆け込みました。そこには土曜日で早めに仕事から帰っていた父が、日の落ちかける夕暮れどき ステテコ姿でちゃぶ台の前にゆっくりと寝そべっていました。
「お父さん、これ見て、見て! 全部私が描いたの‼」
いつも通り、父はよっこらしょと大きな体を起こして「ほう、安寿。これ、ひとりで描いたのか? すごい、すごい。」そう言って 優しく頭を撫でてくれるはずでした。
けれど私の落書き帳の絵を見たとたん、さっと目が厳しくなりました。父の目がそんな風になるのは見たことがありません。
落書き帳のページを手早くめくり、全ての作品に目を通すと、私の手を引いて もといた 誰も居ないお座敷に入りました。
父は何も言いません。
無言のまま、そこにあった消しゴムで、 私の描いた大作を消し始めました。
せっかく描いた作品を消されて文句を言いたいところなのですが、父のあの目を見たとたん、自分は何か とてつもなくマズいことをしてしまったのだと悟りました。
あのドレスの人のお話しを、ただ写して描いてあげただけなのに……。
その時間だけ のっぺりと引き延ばされたように長く感じられ、幼心に身の置き所がなくて辛かったのを覚えています。
父は沢山のページを 苦労して消していました。
その姿は、愛し子の汚れを なんとかきれいに洗い落とそうとする親のものでした。
父の目に 厳しさは もうありません。ただ、悲しい悲しい 蒼色に染まって見えました。
あの父の瞳の色を 生涯 忘れることはないでしょう。
ドレスの女を憎みました。
この世に生まれてきてまだ四年ほどでしたが、生まれて初めて 心から誰かを憎みました。
自分では押さえることができません。
空を覆うほどの うねうねとした大きな黒いムカデの化け物が身のうちで のたうち回るような感覚でした。
父は、消しゴムの作業を終えると その場を片付け、静かに茶の間へ戻りました。
もともと口数の少ない人だったので、他の家族へも このことは話さなかったように思います。
子供が眠ったあとの、親の時間に 母には打ち明けたのかもしれませんが……。
この時の 私の失敗は誰も触れないまま、これっきりで終わりました。
父が茶の間に戻ったあと、私はすぐに あの女を捜しました。と言っても、いつも通りの玄関の所へ あれは戻っていたのですが。
「あんたのせいで、大好きなお父さんに嫌われるところだった‼」
「あんたなんか、大嫌い‼もう二度とあたしに話しかけるな!」
「あんたなんかと、もう遊んでやんない‼」
怒りをぶちまけて叫ぶのは、今度は私の番でした。自分よりかなり背の高い、大人の外国人に気後れしている場合ではありません。
自分の中に生まれた どす黒い化け物の針で 彼女をズタズタに傷つけるまで、心の中で何回も叫び続けました。
叱責を浴び続ける女は、灰色の無表情の中に、どこかさみしい色をチラと うかべました。
そんな顔を見ても もう同情なんて しようとも思いません。
そしてまた最初の頃のように、女は無言に帰りました。
それからは家の中をついて回らなくもなりました。
大好きな父にあんな悲しい目をさせる奴なんか、友達じゃありません。彼女とは二度と関わらないと心に決め、怒りを込めて とことん無視することにしました。
あれはいない、あれは存在しない!
そう唱えながら毎日玄関を通っていたら、影がおぼろになり、あっという間に見えなくなったのです。
私は進学のため育った家を出て、今は 他県に住んでいます。あの家へは ほとんど帰っていません。と言うか、寄りつかないと言った方が正しいでしょう。
祖父母は亡くなり、父も老いて亡くなりました。
手入れをしてはいますが、何年も空き家状態です。
大人になった今、あの時のことを思い返すと、歳を取った分 冷静に考えることが出来ます。
まず、妙な行動をとる娘を叱責もせずに、そっとそのまま おおらかに育ててくれた親たちに感謝しています。
ずっと誰にも話さずにいたことです。あの時、自分が落書き帳に何を描いていたかを---------。
それは、一人の女の人が 裸に剥かれ、叩かれたり撲たれたり、数々の虐待を受ける絵でした。女の人の目からはいつも、雨粒の形をした涙がいくつもこぼれていました。
そんな むごたらしい絵を 何ページも何ページも、四歳児が 描き続けたのです。
あの時は理解出来なかった絵の内容も、今なら分かります。
もし今の時代、あるいは ここがアメリカだったら、私は間違いなく、親、もしくは 周りの複数の大人達から数々の暴力や性的虐待を受けていると判断されたでしょう。
そんな絵を描く子供は親から引き離された揚げ句、施設に入れられ、心療内科の治療を受けさせられていたはずです。
あの頃の私の生活と言ったら、母は毎朝 温かな朝ご飯をこしらえて起こしてくれ、父の膝をソファ代わりにアニメを見て、大好きなお姉ちゃんが学校から帰ってくるまで、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの部屋でおやつを食べながら時代劇の再放送を見る。
それから帰ってきたお姉ちゃんと一緒に家の外に出て、たまに野生化した犬の縄張りに迷い込んで、野犬に追っかけられ、安全な家に逃げ戻っては、夕ご飯のにおいをかぐまで庭遊びをする。
それが世界の全てでした。
ドレスの人の世界は、別の惑星を天体望遠鏡で観察するような出来事です。
大人になった今も、あのような世界を体験したことはありません。
そしてもうひとつ、悲しい事実に気がつきました。大人だと思っていたドレスの人は、中学生くらいの少女だったと言うことです。
幼かったあの頃、大人と思えたあの人は今の私の目から見ると、実は十三歳か十四歳の少女の姿なのです。
古いヨーロッパ風の下働きをするようなエプロンと衣装を着ていました。
あの時、少女はこう訴えていました。
「家が貧乏で、住むところも無くて、私は親に売られました。お屋敷とか大きな商家とか色々なところで下働きをしたの。朝早くから、夜遅くまで。仕事が出来ないといってはしかられ、棒や鞭で叩かれて、ご飯ももらえませんでした。いつも指先から血が出ていました。親や弟妹たちを養うために、男達に体も売りました。最期は、冷たい石の床でボロ布のように死にました。私も、あなたと同じ子供でした。」
これが、あの時は理解出来なかった少女の言葉です。
私は子供の頃から、不思議なものを見たり聞いたりするたちでしたが、人の形であらわれるのは だいたい日本人でした。
テレビ番組や画像などで、偶然映り込んでいるのを何度か発見することはありましたが、外国人の幽霊をじかに見たのは、あの時の、一回こっきりです。
大人になってから海外旅行へも行きましたが、旅先で外国人の幽霊を見たこともありません。
何の関係も無い外国の少女が、しかも田舎家の うちの玄関なぞに立っているのを なぜ 見たのか……。
突飛な推測なのですが、思い当たるのはひとつだけ。
あの少女は私の前世の姿ではなかったかと言うことです。
勝手な思い込みなのです。しかし子供の頃から、私にはこう言った、いくつかの 不可解な過去世の記憶が、どうしようもなく 複数存在するのです。
私と彼女は繋がっていた。だから、お互い 意思の疎通が出来たのではないか……。
最近まで、これらの人と違う体験や記憶などを 心の病気なのだろうかと不安に感じ、強く否定して生きてきました。
けれど歳を重ねるごとに ものの考え方も柔軟になり、不思議な現象も受け入れられるようになりました。
べつに毒にも薬にもならない事だとと思っていますし。
それにもし、あの時、玄関に立っていた少女の生まれ変わりが自分なら、あの子に言ってあげたいのです。
今世、私はとても平和で幸せです、どうぞ安心してください、と。
そう思うことで、彼女の心が慰められるのかどうかはわかりません。
今でもたまに思います。あのドレスの人はどこへ消えたのでしょう?
今もなお 誰もいない あの田舎家の玄関に、ひっそりと、たたずみ続けているのでしょうか-------------。
©︎2023.Anju
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