やがてマサラ #20 パリのガサ入れ、コーンウォールの丘
みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイ。
5年の長きにわたる右往左往。行きっぱなしではなく度々帰ってはいたのですが、「帰国」ではなく「来日」とか「出稼ぎ」という感覚でした。いよいよ本帰国を決め、やり残したことを消化……するつもりがまたまたひと波乱。
花の都パリでガサ入れ
本帰国直前、ビザの滞在期限が迫っていました。諸事情によりあと2週間ほどイギリスに滞在する必要があり、いったんフランスに出国してまた観光客としてビザなしで戻ることにしました。
ユーロスターで走り抜けた英仏海峡。パリの北駅に到着して10分後、財布をスラれました。
旅行者癖というのか、改札を抜けるときやエスカレーターにのるとき、ふと後ろを振り返るんですよ、いつも。このときも振り返りました。人影の少ないガランとした空間に、黒人の背の高い青年がちょっと唐突な感じで柱のところに立っていて、なぜかバッチリ目があいました。とても違和感がありました。
そして私がキャリーケースを改札に通そうともたついている数秒のあいだに黒人の幅太めな女性が突然後ろに出現していて、改札を抜けて即バッグを点検したら財布だけきれいに抜き取られていました。
隣の改札を、こちらも突然出現して抜けていった黒人青年。気がつけば数名の男女に囲まれている私。おそらく私の財布はこの方たちの間でリレーされており、動けずにいた十数秒のあいだに彼らはサッといなくなりました。こんなとき「スリだ」と気がついていたとしても、追いかけるのはちょっと危険です。悔しいけど。
窓口で切符を買っているときから目をつけられていたのでしょう。荷物を持ってるなら改札を通すときにもたつくのは明らかなので、がっちり包囲されたという次第。
私も私で、ロンドンから数時間のパリは学生時代からちょくちょく来ては歩き回ったお気に入りの街でもあり、旅のうちに入らないというか、ちょっとお出かけするだけのつもりで、バックパッカー時代の腹巻や、現金を分散して持つ用心など一切せず、ごく普通のお買い物スタイルで出かけたのがもうすでに間違いでした。
財布の中身は、クレジットカード2枚と現金60ポンド(当時約1.2万円)、銀行のキャッシュカード。
パリメトロの乗り放題切符はすでにカードで買っていて、ユーロはあとでおろすつもりだったのでユーロの現金はありませんでした。あとは期限切れの免許証とか、カムデン地区の図書館カードとか、携帯電話のチャージ用カードとか、証明写真が10枚くらいとか、母親が神社で買って送りつけてきた良縁結びのお守りとか、たくさんお金の入っていそうな分厚い財布なのに収穫は60ポンドのみで、スリの皆さんもさぞ拍子抜けしたことでしょう。見慣れぬポンドに戸惑うがいいわ。負け惜しみです。
幸いパスポートと帰りの切符は無事。携帯電話も無事です。メトロの切符もあるので移動もできます。ただし現金は一銭もありません。さあ、こんなときこそゲーム感覚。サバイバル技術を試そうではありませんか。
まずは駅の警察に盗難証明書を作成してもらっているあいだに、日本のバイト先の編集プロダクションの知り合いに電話。スマホで調べるという術がなかったガラケー時代です。カード会社の盗難届け用の番号を調べてもらおうと事情を話したら、頃はちょうど夏の夕暮れ、私を知っている人々ばかりが何人も揃ってビアガーデンにいらしたところで、「パリから間抜けな電話をしてきた」と格好の笑い者になりました。さぞかし美味しいビールが飲めたことでしょう。
警察官に職業を聞かれ、よもや住所不定無職とも言えないので「添乗員をしています」と告げます。
「いま仕事中なの?」
「いえ、今回は自分の休暇です」
「ああそう。ふーん、添乗員もスリにやられるんだねえ。ふーん」
その後、彼は隣室に行き私をネタにして同僚と大笑いしていました。フランス語は苦手ですけれど、こういうときは分かるのです。
いつもお客様に「みなさーん、ここはスリが多いですから、バッグはしっかり前に抱えてくださいねー」と声を大にして言ってますが、そんな私もしっかりやられていますのでご安心くださいね皆さま。
そのときのパリ訪問は、ロンドンで仲良くしていた韓国人の友人がカルチェラタンに借りたままになっているアパートに滞在する予定で、彼女から鍵を借りてきていました。警察への報告とクレジットカードの停止を完了後、さっそく彼女の地図を頼りにアパートへ向かいます。
エレベーターなしの6階、すきっ腹を抱え、隠れ家みたいな雰囲気の屋根裏アパートに着きました。とりあえずは現金を調達せねばなりません。前日はロクなものを食べておらず、朝も早かったので何も食べず、ただひたすらパリについたらあれを食べようこれを食べよう、イギリスと違ってフランスは食べ物だけは豊かだもの、ムール貝の白ワイン蒸しいっちゃう? と期待に胸を膨らませていた矢先の一文なしです。
選択は3つありました。
プランA: 知人のチュニジア人が一家をあげてパリに移住してきているので彼らに泣きつく。ただし彼らは不法滞在の身で潤沢にお金を持っているとはいえず、おまけに「旅人には親切に」という教えの情の篤いイスラーム教徒。困っている私を放っておくということは絶対にありえず、あれこれ世話を焼いてくれることは間違いない。
プランB: インド在住の昭男くんのお姉さんが結婚してパリ郊外に住んでいる。昭男くんに電話したら「しょうがねえなあ」と呆れ顔が電話回線を通じてビシバシとパリまで届きます。即座にお姉様に連絡し、転がり込んでもよいと了解を取り付けてくれました。よっ、デキる男!(ちなみに彼は冬のバナーラスでネズミと寝ていた私に寝袋を貸してくれた人でもあり、その後デリー某機関で公僕として日本国のために日々働いたエライ人です。泣きついたこと数知れず、いつもありがとう……)。
プランC: アパートを貸してくれたロンドンの友人に誰かお金を貸してくれそうな人を紹介してもらう。
どれもこれも全然知らない人ばかりに頼る素敵なプランです。
プラン1はやはり避けたいところ。よく考えたら現金がないのでプラン2は郊外に行く列車代を払えません。
番外編として在パリ日本大使館に泣きつくという手もあったのですが、なにせ私のパスポートはスタンプだらけの代物です。大学生ぐらいの初々しい旅行者ならともかく、そんなパスポートを持ち込んで金貸せとはちょっとかっこ悪くて言えません……。
ということで、プランC。ロンドンにいる友人に電話。
「あのねえ、北駅で財布スラれちゃったんだけど、誰かお金を貸してくれるような優しい友だち、いない?」
一瞬の無言のあと、友人は静かに言いました。
「……まずは落ち着くのよ」
友だちとはありがたいものです。お腹が空きすぎて泣きそうです。
「キャッシュは、私の部屋に、ある」
「え、ほんと?」
突然、心が浮き足立ちます。なんという朗報!
「冷蔵庫にキムチの素も、ある」
「うわーい!」
「棚を探せば、パスタと米もあったはず」
「おお!」
そして友人は、そのキャッシュは彼女がお金を貸したほかの誰かが部屋に隠していったので詳しい場所は知らない、自力で探すようにと厳かに言いました。
どこか本の間に挟んだらしいとのことでしたが、彼女はソルボンヌ大学で博士課程を修めた才媛でございました。本とひと言で言いましても、図書館のように壁一面が本で埋め尽くされていて、ざっと見ても500冊はくだらないのであります。
花の都パリに到着して数時間後、私がしたこととは、他人の家に上がりこみ、あっちこっちひっくり返して泥棒の真似ごとなのでした。人間、お腹が空くとどんなことでもためらいなくできるものです。
最初は片っ端から本を開いていたのですが、途中で気がつきました。
本棚の前に椅子を運んできて、上から本を眺めます。お金を挟んであるなら、ページとページの間が膨らんでいるはず。頭いいなあ私!
はたして、ありましたよ300ユーロ。立派な専門書のあいだに!
そんなこんなで現金も手に入れ、アパート階下のエジプト人の店でローストチキンを買ってお腹も満たし、しかしその時点で疲れきっていたのでパリだというのにどこへも出かけず、屋根裏の窓からノートルダム寺院を拝み、その後ひたすら眠りを貪ったのでありました。
キムチの素はローストチキンに添えたらとても美味しかったです。 カムサハムニダ。
始まりは西の果てから
フランス珍道中から戻ったロンドン。借りていたフラットのデポジットを返してもらうなどあれこれ事務的な仕事を済ませ、いよいよ旅立ちのとき。2006年9月。
旅人魂といいますか、せっかく5年間の大放浪を終わらせるなら、いっそすべて陸路で日本に帰国しようと計画していました。飛行機でビューンと帰国するにはいろいろな思い出がありすぎました。
せっかく大陸横断するならスタートは一番端っこに行こう……というわけで、イングランド最西端のコーンウォールへ。それまでほとんどイギリス国内を旅していなかったので、ちょっとした遠足気分でした。
ロンドンは1年の9割くらいは天気が悪いので、スカッと晴渡った空を見ることは、5月〜6月を除いてとても稀なことでした。コーンウォールはケルト海に面した断崖絶壁が続いており、とても風が強く、そのせいなのか滞在中はずっと青空。
住んでみて実感しましたが「天気の話ばかりしている」と言われるイギリス人は、ほんとうにしょっちゅう天気のことばかり話しています(笑)。晴れたの曇ったの雨が降ったのと毎日同じ話題を飽きもせず。それほど天気が変わりやすく、特に15時ともなれば薄暗くなる冬のロンドンは陰鬱で、ほんの少しでも空が見えることがあると心が浮き立つ思いがしました。
棺の上のベリーにガンジス河の魚を思う
ここでちょっと思い出の恋バナなど少々。まあいいじゃない、たまにはそういうのも。うふふ。
私は大変勉強熱心な生徒だったので、ロンドンで通っていた語学学校の担任の先生には大いにえこ贔屓していただきまして、まあなんというか、ちょっとだけお付き合いしていたことがあります。先生は秀才型、あまり冗談が通じない堅物タイプの人で、ある日、近くの霊園に本とおやつを持ってピクニックに行きました。墓場でデート、あまり色気はありませんけれども。
そこで目に入るは、ブラックベリーの茂み!
日本ではあまりベリー類に馴染みがないというか、おしゃれなスーパーでいい値で売っている高級果物という感じがしますが、 イギリスでは堂々とそこらへんに自生しています。
それを知ったのは、渡英直後、くだんのパートナーのお母さんが住むロンドン郊外の丘に連れていかれたときのこと。高速道路のすぐそばにある鬱蒼とした森の中をたっぷり1時間、藪をかきわけ歩いて登った先に秘密の場所がありました。 彼と母親が、30年間、誰にも教えずに、毎年夏になるとブラックベリーをつみにきている場所とのことでした。
ロンドン市内のあちこちで、季節になるとタッパーを抱えた老若男女が真剣な表情で住宅街の茂みに身をかがめて収穫したりしています。日本の銀杏拾いにちょっと似た風情があるかもしれません。でも街中の茂みはなんというか、犬は散歩しているし排気ガスも立ち込めていますし、その、なんというか。
この秘密の場所には、いつ行ってもつやつやしたベリーがたわわに実っていました。軍手と運動靴と長袖シャツで完全武装して、収穫してるのかつまみ食いしてるのか分からないようなベリー狩りを楽しみました。
そんな楽しい思い出もあったことはあったのです。あの丘にはもう行けないけれど。
ロンドンの短い夏の終わり、霊園デートでブラックベリーの茂みを発見した私、大興奮。手元にあったスーパーの袋にありったけ詰め込みました。ブラックベリーの枝には細かいトゲがいっぱいあって、ちょっと気を緩めると手が傷だらけになります。切り傷だらけの私の手を見て、先生は呆れ顔で読書を続けていました。お金出して買わないといけないものを自力で収穫するってところに燃えるわけですよ、都会っ子の私は。
ところでそのベリーの茂みは、思い切りヒトサマの墓石の上にありました。なにせ霊園なので。
それはちょっと、ガンジス河でとれた魚のようです。
ご存知バナーラスでは、荼毘に付した遺灰を流したすぐそこで洗濯したり、釣りをしたりしています。火葬にせず水葬にされる遺体も多いといいます。だからよく太った魚がバナーラスの市場で売られているのを見るたび、「あれだけはよう食わん」と思っていました。
しかしです。あるとき、知り合いのインド人宅でお母さんがつくってくれたのは魚カレー。もちろんガンジス河でとれた肉厚な魚の。一瞬「えーと」と思いましたが、出されたものは美味しくいただく主義です。とても、美味しかった。
ですから棺の上のブラックベリーなんて、どうってことないのです。
しこたま収穫してきたベリーは、お砂糖とライムと生姜で煮てジャムにしました。オーブンがあったらパイを焼いたのですが、そこはしがない借り暮らし。
夏の終わりの、そろそろ秋支度の茂みからは、小ぶりの痩せた実しかとれませんでした。あの秘密の丘の丸々と立派なベリーとは雲泥の差です。 それでも間に合ってよかった、と思いました。忘れていた夏休みの宿題を終わらせた気分といいますか。
このベリージャムに生姜の搾り汁を入れるのは私のイギリス風アレンジ。甘酸っぱい中にピリリと効いていて、まるきりベリーの思い出そのものの味。
出来過ぎですね。あはは。
コーンウォールの丘で
そんなブラックベリーを、帰国直前のコーンウォールで見つけました。
ひと家のない山道でひとり興奮する私です。記憶が行きつ戻りつ、振り返ってはまた前を見る。
誰もいないところで自撮りをするのはこのころからです。時代を先取りしていましたよ。えっへん。
私の再生物語はここから始めるのだ、そんな壮大な気分にふさわしいイングランド最西端なのでした。