映画『あなたの名前を呼べたなら』:自分の足で歩くという自由
楽しみにしていた映画『あなたの名前を呼べたなら』を観てきました。以下、ネタバレはありませんがいつものように背景についての話やアンジャリ個人的体験が含まれます。事前情報なしで観たい人はご注意くださいねー。
◆2019年8月2日(金)から全国ロードショー中◆
階級、ああ階級
観ている風景が違う。食べるものも着るものも違う。話す言葉も違う。
使う人と使われる人は、たとえ同じ空間で同じ空気を吸っていたとしても、決して交わることはない。
これ、旅行者だと分かりづらいかもしれません。反面、インドでインド人と行動を共にすると嫌というほど実感します。
行く場所にもよりますが、旅行者として交流する観光業の人、つまり観光ガイドやホテルのスタッフやドライバーや土産物屋のスタッフは、外国人のアナタにフレンドリーに接するのではないかと思います。列車や地方の町や村でふとすれ違う、ザ・庶民の皆さんも、旅行者には基本、明るく笑顔で親切にしてくれると思います。
ところが、仕事上おつきあいのあるインド人(つまりそれなりに立場のある人)と一緒にいると、その人のために働く従業員や使用人の皆さんは決して笑顔を見せず、必要以上の会話をせず、頑なに職務だけを遂行しています。ちょっと話しかけたり冗談を言っても"Yes, Ma'am"(さようで)としか答えてくれません(男性に対しては"Yes, Sir")。私の英語が通じておらず、とりあえず機械的に丁寧な返事だけする場合もあれば、分かったとしても決して同じノリに合わせてくることはありません。
これが階級社会というもので、属するコミュニティの中での序列は絶対だし、お仕えする雇用主と使用人には絶対的な上下関係があります。外国人旅行者はコミュニティ外の存在なので素を見せられるけれど、ご主人様の客人に対してはご主人様と同等の接し方をしなくてはなりません。
「オッケーGoogle」とか「アレクサ」などのAIアシスタントが出始めたとき、ああこれってインドでサーバント(召使い)を呼んでなにかを言いつけるときと同じだなと思ったものです。そこに感情はなく、指令とそれに対するレスポンスのみ、という点で。
写真家・三井昌志さんの撮影教室ツアーに過去2回同行していまして(追記:2020年3月に再度同行して計3回になっている)。そこで訪れる地方の農村で、カメラを向けられて、満面の笑顔でレンズを見つめる人々に触れるたび「ああこれは門外漢の日本人だからできることだな」と思うのです。これが同じインド人で、都会からやってきたよそ者だったとしたら、同じ表情を見ることはできないでしょう。農村の人からしてみたら、そういった訪問者は条件反射で"Madame"とか"Sahab(Sir的な敬称)"として接しますから。
インドの階級社会については下記のエントリーでも書いているのでよろしかったら合わせてお読みください。
映画『ヒンディー・ミディアム』 現代インドのリアルすぎるリアル
坊ちゃんと召使いという古典
かつての日本でもそんな話はありましたよね、「坊ちゃんが女中に手をつけて」というお話は。(※用語はあえて言い換えせず)
インドではその現象がリアルタイムであります。実話で知っている例もあります(マジで)。
そして使う側は使われる側のことを同じ人間とは思っていないように感じることがとても多い。息をするように自然に命令し、空気のように無視する。それがあたりまえだったりします。私は仕事相手のことをよく知りたいときは、使用人に対する接し方を見ます。心ある雇い主はきちんと人としての扱いをしていますが、私には笑顔を見せながらドライバーには横柄な態度というような人もごく普通にいます。
メイドが食事を出せば"Thank you"と返すようなこの物語の「坊ちゃん」は、その点ではそもそもが「心ある」人物として描かれています。
ムンバイーの新進性
このお話の舞台は大都会ムンバイー。地理的に古くから交通の要衝として栄えた街であり、西方との交流も盛んだったからなのか、インドのほかのどの都市と比べても「自由」を感じる街だと思います。保守的で堅いデリーと比べると、ムンバイーは、「出自はともかく、なんとかしてうまいことやった成功者」を比較的柔軟に受け入れる空気があります。身分が低かったり学のない田舎出身者であっても、才覚があればのし上がれるというか。
作中で主人公のメイドの妹が田舎からムンバイーに行きたいと夢見る場面があったり、手に職をもってメイドから転身しようと主人公が考えるのも、ムンバイーという街に「ワンチャンあるかも」というインディアン・ドリームを見させるだけの土壌があるからといえます。
女性の人生の終わりとは
教育は最小限、若くして結婚させられ、どんなに若くても夫が死ねば「男を死なせた不吉な女」として「かろうじて生きていける」だけの人として終わった人生を歩むことになるのが伝統的なヒンドゥー教の女性観(追記: 価値観どんどん変わっているので言い切るのは危険だけどあくまで「伝統的な」という前提で)。夫の長寿を祈る女性だけの祭りがあったりして、それはそれで愛の証で美しいのかもしれませんが、根底にあるのは「先に死なれたら私の人生も終わり」という価値観。ここでは詳細は触れませんが「サティ」という習慣は禁止されてはいますが、ちょっと前まであったものです(いや、まだあるかも)。
映画『Dor』(絆)という2006年の映画に、若くして未亡人となった女性の境遇が描かれているのでよかったらぜひ(リンク先のYourubeで無料で観られます)。殺された男の妻と、殺した男の妻の「絆」の物語で、最近ひとつの大きな流行となっているウーマン・エンパワーメントの走りの作品です。
二極化する女性の立場
一方、中上流階級の女性たちは、高い教育レベルを誇り、バリバリに仕事をこなします。
私の前職のインドオフィスには、同じグローバルチームの同じ役職のインド女性がいましたが、東京で家事育児をワンオペに近い状態でやりながらフルタイム勤務する私を「信じられない!」とよく言っていました。
インドにいる彼女の場合は、食事の支度や掃除は通いのお手伝いさんがやるし、子どもはナーサリー(幼稚園)に通う以外はほぼナニー(子守)に任せ自分は仕事に集中しているといい、実際、彼女の仕事ぶりは素晴らしかった。超お金持ちというわけでもない、暮らしぶり的には中の上、上の下くらいの話です。
デキる女性がどんどん力を伸ばす一方、それを支えているのは取り残された女性たちという構造に複雑な思いがしたものです。
守られるべきは何か
前述の『ヒンディー・ミディアム』の記事でも書きましたが、必要なのは”Sharing is Caring”(思いやりとは分け合うこと)という「施し」ではないんですよね。その場限りの援助には未来がない、なぜならUnfair(不公平)を残した関係の中での援助に頼る限り本当に自由にはなれないから(2021年5月追記: それでもしない援助よりするほうが確かに助かる人もいるからしたほうがいいと、このコロナ禍においては思う)
本作の中でもそんな場面がいくつか描かれていました。想いを寄せるメイドを喜ばせたいという坊ちゃんの気持ちはピュアで美しいけれど、彼女が手に入れたいのはそれじゃない。
一個の人間として自分の力で歩いていくこと。メイドとはいえムンバイーで働き稼ぐ彼女には、ささやかではあれど断固とした誇りがあります。だから、守るべきは彼女の誇り。そこがこの切ない恋の鍵なのかなと思います。
自分は取るに足らない存在で、いてもいなくても世界は変わらない。生まれてからこんにちまでずっと、いとも容易く尊厳を奪われ続けてきた女性がほしいのは、自分の足で歩くという、簡単なようでとてもハードルの高い望みなのだと思います。
主人公は注目のあの人
メイドを演じるのはコルカタ出身のティロータマー・ショーム(Tillotama Shome)。なんとタイミングよく9月6日公開『ヒンディー・ミディアム』でやり手お受験コンサルタントを演じています。まったくイメージの違うふたつの役柄を演じていて、とても素敵な女優さんだと思いました!
あとは露出は少なかったけれど、サルマン・カーンのアクション映画『Tiger Zinda Hai』や皆さまご存知『パドマーワト』で第二夫人を演じていたアヌプリヤー・ゴーエンカー(Anupriya Goenka)が出ていたような気がするのですが、キャストに名前がないので未確認です……。
というわけで、全編しっとり落ち着いたつくりながら「自由とはなにか」「尊厳とはなにか」とさまざまな感情を呼び起こさせるよい作品でした。劇場でぜひ!
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