やがてマサラ #7 リュック背負ってお嬢さん
みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。
昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。
お嬢様ではないけれど
「あなたは結局、育ちのいいお嬢さんなんだよ」
腐れ縁の友人はそういいます。富豪の娘ではありませんが、苦労知らずという意味ではおそらくその通りです。それなりの悩みはありながらも、おかげさまでなに不自由なく大人になりました。
さて。横浜で明るく楽しい高校生活を送ったあとは都心のマンモス私大に進学しました。祖父の年賀状にはバルセロナオリンピック水泳の金メダリスト岩崎恭子さんと叔父(母の弟)の結婚が描かれました。
マンモス私大を即ドロップアウト
入学式当日。早くも大打撃を被りました。キラキラした大量の男女からのサークル勧誘! マイクを使って行われる講義! AからZまであるクラス! ひと見知りの私は人の多さだけで圧倒されてしまいました。
結局、入学して早々に国立大学を再受験することに決めました。日々、大学には行けども図書館に直行。私大のなかでは安いほうだったとはいえ、入学金と学費を出してくれた毎度の大盤振る舞い祖父はとても残念がりました。まあ当然です。ごめんなさい。
東京外大へ再入学
翌年、東京外国語大学のインドネシア語科に入学。同期は19名だったか、そのサイズ感にとてもホッとしたのをよく覚えています。
東京外大はその名の通り外国語と外国の文化を学ぶための大学で、私が望んでいた環境が贅沢に揃っている理想の場所でした。大人になったいま、学び直すことができるなら私はまた学部生の4年間をやり直したい。
苦労知らずのお嬢さんは苦労知らずゆえそんなことちっとも感謝しません。ア・カペラサークルの活動やら、アルバイトやら、歌のオーディションやら。マンモス私大から「勉強がしたい」と志して再入学したはずなのに、肝心の学業とは違う面であちこち駆けずり回っていました。
最初で最後のモテ期
過去の栄光を自慢してもしかたがございませんが、このころとてもモテました。
なぜモテたのか冷静に振り返ってみると、要するに私には大した中身がない代わり、勢いと好奇心という若さの二大特権がフルチャージされていました。それらをまとうと誰しも何割増しかに見えるものだし、自尊心の強い男性ほど、見栄えする綺麗な娘より、生意気にものを言う子を連れて歩きたがるもの。そのころの写真を発掘してみても、なんだかとても生意気そうです(笑)。
どこに行くにも派手なスポーツカーで送り迎えしてくれたお金持ちの先輩、六本木や麻布にまだいたバブルの残り香がする広告業界のお兄さんたち。回らないお寿司やいい雰囲気のバーやあれやこれや、何者でもない、ものを知らないただの小娘に大人の遊びをたくさん教えてくれてありがとうございます。グッチもシャネルも薔薇の花束も喜ばない私に、私の名前を冠したカクテルを贈るなんてゲラゲラ笑っちゃうような戯れを、たいへん懐かしく思い出します(美味しかった)。
恋を知るには子どもすぎて、まだ怖いものがなにもありませんでした。
東南アジアの旅デビュー
外大だけに、先輩たちも同期も長期の休みともなれば1か月、2か月という単位で海外旅行をします。私も例にもれず、1年生の春休みに両親から離れて初めて自分の旅行をし始めました。休みのたびに、いそいそと。専攻地域のインドネシア、タイ、マレーシア。学生なのでいかに安く済ませるかが最優先のバックパッカー旅行です。
バリ島の寺院にて。スカしてます。
現在は有名なダイビングスポットになっていますが、まだ手つかずのビーチしかなかったタイ南部のタオ島はとくに気に入ってずいぶん長居しました。シュノーケルでちょっと潜るだけで竜宮城のような色とりどりの世界が広がっていて、毎日夢中で泳ぎ回っていましたら。
こうなりました。下記参照。
当時の自分に言いたいのは「その無防備な日焼けはのちにシミになります、いますぐ日焼け止めを塗りなさい」ということです。
あんまりだから自分でも衝撃のあまりひっくり返りそうになったビキニ姿でも載せておきます。
天竺への道
専攻地域のインドネシア、そして東南アジアを周り、遺跡や影絵芝居や各地の芸能を見たり、すれ違う旅行者と話すうちに気づいたことがありました。
どうやらこのあたりの文化は、元を辿るとインドから来ているらしい。
インドネシア語にもインドの古代語サンスクリット由来の単語があります。影絵芝居のテーマであるラーマーヤナはインドの叙事詩です。
そしてなにより、バックパッカーの世界ではインドはなにか通らねばならない通過儀礼のような行き先でした。
当時は港区高輪(高級住宅街です…)の親戚所有のマンションにひとり暮らし。小汚いリュック姿で東京に戻るたび、「あそこのお嬢さんはいったいなにをしているんだ」と言いたげなご近所のみなさんの視線が大変痛かったです。
インドデビュー
インドデビューは1997年の春休み。3か月、各地を回りました。
一番気に入ったのは、だらだら滞在するバックパッカーに優しい街、ヒンドゥー教最大の聖地バナーラス。『いもちゃんカフェ』の名称で親しまれていたこの露店のチャイ屋の息子いもちゃん(写真右)は現在は子どものいる立派なオジサンになっています。私のほうがオバサンだけど。
初めてのインドは、印象深かったといえば印象深かったのでしょう。あまりに時間が経ちすぎてもうあまり記憶がありません。当時はスマートフォンもないしカメラも「写ルンです」をひとつ、持っていっただけ。24枚撮りのネガフィルムを改めて見たら、タージマハルと夜行列車の写真だけは出てきました。変わったのは私だけだなァ(笑)。
インド映画との出会い
覚えているのは、この旅で観たインド映画がとても印象的だったこと。
『きっと、うまくいく』、『pk』でお馴染みのアーミル・カーン主演の "Raja Hindustani"という作品が大ヒット中で、街中どこに行ってもこの映画の主題歌が流れていました。
Pardesi Pardesi Jana Nahi. Mujhe Chhod Ke, Mujhe Chhod Ke.
外からやってきた人よ行かないで
私を置いて去らないで
あちこちでこの特徴あるメロディが流れるので、ものは試しと映画館に行ったのが最初です。まだまだインド色全開の、古典的な身分違いの恋を題材にした作品でした。
この歌詞に後ろ髪を引かれたのか、インドにはまた戻ってくるだろうなと、そんな予感がした初インドでした。