やがてマサラ #12 秘境系インド添乗員へ
みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイもやっと就職までたどり着きました。折り返し地点。46億光年を振り返るのはなかなか大変ですね……。
晴れて大学卒業へ
大学生活の最後の年は、就職はともかく単位は満たして卒業だけはなんとしてでも果たさねばという心持ちでした。さすがの私も。
このころにはライターの仕事で地方や海外に行くこともあり、ただの旅行よりも出張としての旅が増えました。とはいえ卒業後もフリーランスのライターを続けていくのかどうか、私にはまだ覚悟ができていませんでした。
「就職まだ決まってないならうち受けてみない?」
声をかけてくださったのは、98年に開設した「ホームページ」で繋がった、同じ東京外国語大学出身の先輩でした。メジャーな観光地には一切行かない、いわゆる秘境への旅を扱う旅行会社にお勤めのその方とは、オフ会(懐かしい響きですね)でお会いしてよく遊んでいただいていました。
就職活動はしないまま、先輩がいる秘境系旅行会社の採用試験へ。
「この手配は間違っています。今すぐ再確認してください」とか「なぜオーバーブッキングなのですか。代替案はなにがありますか」など、超実践的な英語の筆記試験と、面接の「あなた英語で喧嘩できる?」という質問に内心うひゃあ! と思いつつ、もちろんそこは大得意分野(笑)。無事、合格しました。
あとは単位取得のみ。2年目に取得しておいてしかるべき一般教養や、5年間落第し続けた第二外国語のフランス語など、最後の最後になんとかクリア。教授の皆さま、その節はこんなアホな学生のためにお時間とらせてしまい申し訳ありませんでした。
マンモス私大から数えると、実に7年間の大学生活。世界のレア言語を扱い、レア文化の貴重な文献と頭脳と素晴らしい先生方に溢れた大学だったのに、私は学業面ではなにひとつ真剣に得ないまま卒業だけしました。子育てが落ち着いたらもう一度学び直したいといまは思います。
秘境系旅行会社へ
2000年4月、25歳。初々しさにはイマイチ欠ける新卒入社。同期は確か8人いました。
私は先輩のいる南アジア担当デスクに所属することになりました。インド、スリランカ、ブータン、バングラデシュなどを扱っているチームです。いまではあまり考えられないことですが、当時はパソコン1台を2、3名で共有という時代で、上司の手書きのメモを渡され文面をカタカタと打ってEメール送信をしたりしていました。最初に覚えるべき航空券予約の端末も2台しかなくて、もたもたやっていると後がつかえるという緊張感あふれる環境です(笑)。
このとき机を並べてパソコンを取り合っていたのが、のちに独立し、現在アンジャリツアーのビジネスアドバイザーであり、ツアーの実施も行っているGNHトラベルの現・代表取締役山名氏です(ちなみに奥様も同期)。
添乗デビュー
入社早々のゴールデンウィークには20名様のグループをお連れしてカンボジアのアンコール遺跡へ。当時はまだ現地には英語ガイドしかおらず、歴史や遺跡の固有名詞がまったく分からないまま旅程管理とガイド通訳を同時にするという、なかなかハードな添乗デビューでした。
その後、入社して2回目の添乗はブータンへ。ガイド氏とのソーシャル・ディスタンスが時代の先取りすぎて何度見ても笑ってしまう一枚です。
「ブータンは夜這いの習慣があるから気をつけよ」とまことしやかに言われていたのです。ええ、まったく杞憂に終わりました。
添乗員とガイドの違い
一般のお客様からするとどこがどう違うのか分かりにくいのが、添乗員とガイドの違いかと思います。前者は旅程進行を管理し、後者は観光案内をします。
私がこのころ取得した資格は添乗員になるための旅程管理者というもの。旅程管理とは、ツアーの出発から帰国まで同行し、日程に書かれている行き先や移動手段、宿泊先にお客様を安全に間違いなくお連れすることです。フライトやホテルのチェックインをしたり、目的地や道中の安全を確認したりといった業務です(細かくいうともっとありますがひとまず)。一方、名所旧跡の説明やご案内をするのがガイドで、こちらは行き先で一行と落ち合うことが多いかと思います。
こちらは2019年ですが、映画『バーフバリ』のロケ地を訪れる『はじめての王国ツアー』でお客様に撮っていただいた一枚。隣にいるのは、いまや私のツアーではお馴染み、ビジネスパートナーにまで成長した現地ガイド氏。このときは私からのちょっとしたお小言のあとだったのでふたりとも少々堅い表情をしています(笑)
鍛えられた現場力
カンボジア、ブータンと続き、以後はずっとインド添乗ばかりになりました。思えばこの2国への添乗は若葉マーク添乗員に難易度の低い国に行かせてやろうという親心でした。それくらい、その後のインドは過酷(笑)
通常、観光地でのガイディングは日本語を話せる現地ガイドに任せるのですが、その会社のツアーはメジャーな観光地には行かないので、どこへ行っても英語ガイドしかいませんでした。
現在私が企画しているツアーも同じ体制をとっていて、この新卒時代に鍛えられたことが大いに役立っているといえます。地方都市に日本語ガイドを手配することももちろん可能ですが、デリーやムンバイなどの都市から派遣することになるので、少人数のツアーだとどうしてもコスト面に影響が出てしまいます。
インドは地方によって言語も違いますし、ローカルルールもあります。勝手が分からない日本語ガイドが都市部から同行するより、行った先々の優秀なローカル英語ガイドによりきめ細やかなガイディングをしてもらい、言葉の壁は私がカバーするほうが内容ははるかに充実します(なぜかここで宣伝)。
次の一枚はインド北東部シッキム州を訪ねるツアー。私の右隣にいるのが現地ガイドで、彼の説明を聞き、お客様に逐次通訳しているところ。地名、人名、歴史的・政治的背景、さまざまな基礎知識がないとこういった通訳は難しいものです。
ガイドブックにも記載がないエリアでは、先輩添乗員が書き残した以前の添乗日誌や、専門書からコピーしてきた紙の資料が頼りでした。この写真でもバインダーを抱えていますね。毎度、出発前に資料をまとめるものの目を通す暇がなく、ツアー中は毎晩寝る前に翌日の行き先の情報を丸暗記するという、受験勉強よりもよほどハードな一夜漬けが毎日続きました。
石窟・石造の建築にハマる
こちらは世界遺産アジャンター遺跡。
【訂正】アジャンターではなくナーシクの石窟でした。この写真の裏にこんなことが。
21世紀の。はい。ありがとうございます。ハハハッ!
このとき訪れた各地の石窟と遺跡に大いに興味を惹かれ、以後、個人的にもインドの古代から中世の建築にハマりました。
石の中を掘り進みくり抜く石窟から始まったものが、時代を経て次第に石を切り出して運び積み上げる石造になり、さらにその建造物に壮麗な彫刻を親子3代かけて施す時の王がいたり。石に何百年も前の生々しいノミのあとが残っているのを見たりするとわくわくします。
こちらは壮麗な彫刻で知られるカルナータカ州ハレビードにあるホイサラ朝のホイサレーシュワラ寺院。このような少々気の触れた感のある建造物が各地にあるのがインドという国の凄みだと思います。
ハードだった添乗の日々
私が添乗したツアーは9〜14日間のものが多く、月の半分は社内にいませんでした。添乗中は無休ですし、戻れば事務作業が山積みですし、時代もあったのでしょうが、休みはほぼありませんでした。住民票を会社に移したほうがいいねなんて冗談が飛び出すくらい、家に帰れなかった!
当時、ご旅行後にお客様にお渡しした添乗日誌。お暇な方は地図で地名を辿ってみてくださいね。恐ろしい距離を2日間で移動しています……。
ハードながらも、自分でもこの仕事は向いているなと思っていました。ただ……、自分の旅行をする時間が、まったくなくなりました。社会人一年目ですから仕事に全力を注ぐべきと思いつつ、好きな旅行を仕事にしているのに自分のための旅ができないことは思った以上にストレスでした。
同期のうち半数が入社早々に退職、私は1年後に退職。
上司でもあった先輩の口添えもあり、退職後も約3年間、専属の添乗員として繁忙期のツアーに添乗していました。インド全国津々浦々の個人で行くのが難しい場所に行かせていただいて、貴重な経験をたくさんしました。ありがたいことです。
ツアーはチームワーク
社員添乗員だったころは年配のお客様が多かったので、年末年始のツアーは大晦日に年越し蕎麦を出したり、元旦にはお雑煮を出したりするのが恒例となっていました。あまり外国人に慣れていない地方のホテルではイレギュラーなリクエストばかりして、スタッフにも随分とお世話になりました。
餅はタンドール窯(ナーンやチキンを焼くアレです)で焼けとか、この区間はトイレがないからこのあたりの草むらがいいとか、次の行き先に向かうときは必ず事前に相手方に電話を入れて状況を念押ししろとか(当時は携帯電話がなかったのです)、とにもかくにも、この頃のツアーは、先輩添乗員の日誌や出発前のレクチャーにおおいに助けられました。
どの写真を見ても分厚いバインダーを抱えています(笑)
これ、ちょっとイラッとしていますね。夜行列車の移動でガイドの駅ポーターさんへの指示出しが甘いので横から口を出してあれこれ言っているところです。
思い出すだにこのころの添乗は、とかく計画通りに進まずトラブル続きのインドという国での旅程管理に必死で、心の余裕というものがまったくなかったように思います。
南インドのツアーでのこと。インド最南端カンニャクマリで現地ガイドと大げんかし、バーン! と書類を投げつけられたのに腹を立て「もういい! 帰って!」といったが最後、売り言葉に買い言葉でガイドは罵詈雑言を吐きながらそのままドロン。
その日は230キロ離れたマドゥライまで移動しなくてはならない日程で、言葉の通じないドライバーとふたりでツアーバスをひた走らせました。日本とは交通事情が違うので、230キロはかなりのハードな道のりです。居眠りでもされてはいけませんし、かといって会話は成り立たないし、自分も疲れで頭がもうろうとしてくるけれど絶対に寝るわけにはいかないのでドライバーの横に張り付いて前方を凝視。このときはほんとうに参りました。
ツアーの先頭でお客様をご案内するのは添乗員ですが、ツアーとは、企画を立て旅程を作り、各地の移動や宿泊を手配し、事前の仕込みにたくさんの人の手が必要なものです。そして現地では、ツアーの生命線となるガイドやドライバーと協力して安全に楽しめる時間を作り上げるものです。
当時の私にはこのことを考える余裕がありませんでした。ガイドとはよく喧嘩したし、イライラが顔に出ていることも多かった。お客様が送ってくださったビデオに、ぴりぴりモードの私が映っていました。
このときはガイドがですねえ、ろくな説明ができず、ヌボーっと「はい、これお寺ね」というような雑な案内ばかりするので腹を立てていたのですね。
インド歴も今年で24年、渡航はこれまでに48回となりました。各地でさまざまなインド人に会い、(ツアー以外にも)ともに仕事をし、プライベートのインド旅行も重ね、おそらく少しはインドでのトラブル対処やインド人のメンタリティが掴めてきたように思います。
「きみはツアー中、常に場の中心にいるのだから、いつも余裕の笑顔でいなければいけないよ。どんな状況でも、心の中で『余裕、余裕』と呟いて」
3年前にひょんな成り行きでツアーを企画し添乗を再開して何回目のツアーだったでしょうか、そんなアドバイスをくれた人がいました。お客様の時間は二度と戻らないもの。私はツアーの監督であり主演女優でもあるのだと思いました。この言葉を下さった方には本当に感謝の気持ちでいっぱい。
日当のベースが極端に低く、チップや連れて行った店からのキックバックその他あらゆる手段で収入を確保しなくてはならないガイドやドライバーには正当な対価を。ホテルやレストランのスタッフには具体的で正確な指示を。
アンジャリツアーの旅行代金はお安くはありません。それは、ツアーを支える現地スタッフに気持ちよく働いてもらいたいからというのが一番の理由です。これまで何十年も変わらないインドクオリティでまかり通ってきた悪しき業界ルールを崩し、スタッフもお客様も、そして私も満足度の高いツアーを作りたいのです。
何よりも貴重なのはひとさまの時間。ツアーは舞台と同じ水物で、同じ旅程で同じ行先であっても、ひとつとして同じツアーはありません。どんなアドリブが飛んできても楽しく面白い舞台にしたい、そのためには、役者も裏方スタッフも観客も、すべてがひとつのチームだと思っています。
遅咲きの恋
学生時代の最後の年、知り合った人に、恋をしました。
「いま、光がきれいだからいこう」
キリッと空気が張り詰めた早朝の海辺や田舎街や、夕暮れどきの船上を、その人のあとにくっついて歩き回る。インドでのことです。
それまでの数回の渡航で、私はインドに対してどこか別の宇宙の話であるような気持ちでいたといいますか、しょせんはネタであり、面白おかしく話してナンボ、と思っていた節があります。
その人の目線で見るインドはまるで違う世界でした。それはとても美しい風景の連続で、人も、景色も、水しぶきですら輝いて見えました。
撮影準備? いつしてたの? というくらいサラっと撮ったなにげないスナップ写真が、じんと胸に迫るような瞬間を写していて。フィルムの時代なので、そのときなにをどういうふうに撮っているかはわからないけれど、仕上がってみると「ああそうか、これを撮りたかったのか」と気づいて嬉しくなりました。
その人を通じて、私はインドを好きになったのかもしれません。目の前のことを、なんの色眼鏡もなくまっすぐ見て受け止めるということを教えられたように思います。
その人には恋人がいました。
それまでお付き合いした人もいましたし、我が人生最初で最後のモテ期でもありました。ただ、自分から声をかけることはなく、最初のころのインドと同様、私はどこか人に対して本腰を入れていないところがあったように思います。
自分の心はこんなにも動き、痛むのか。そんなことを知った遅咲きの恋。初めての、身を焦がすような、恋でした。